本牧読書日記。渡辺京二「黒船前夜」・ロシア・アイヌ・日本の三国志(洋泉社)。
日本の開国を迫った欧米の「砲艦外交・黒船来航」が表門からの圧力だとすると、その半世紀も前のロシアからの来航は裏門(オホーツク・カムチャツカ・千島)からの忍び足のような接触であった。
我々が習った日本史ではあまり取り上げられていなかったし記憶に留まる項目は少ない。
本書でラクスマン、レザーノフ、ゴローヴニン等の人名が出てきても「聞いた覚え」以上の知識は僕にはなかった。読了した現在でもしっかり頭の中に残っているとは言い難い。
間違った点があるかも知れないが略記してみよう。

時は18C末から19C初頭にかけての20年間ほどの出来事である。
①早くも1771年にロシア関係と思われる異国船が阿波に入港し長崎のオランダ商館長宛の文書を託したことがあるが、はっきりと使節が到来したのは大黒屋光太夫の帰国送還と引き替えに通商を求めて根室に来航(1792年)のラクスマンである。幕府は対外窓口は長崎に限るとして、長崎入港許可証(信牌)を与えラクスマンは帰国した。松平定信時代で、取り敢えず信牌を渡して帰したのである。
②ロシア国内事情もあって貴族外交官レザーノフが長崎にやってきたのは12年後の1804年。しかし彼の期待に反して今回の幕府は言を左右にして対露通商の扉を開かず。長期待機させた挙げ句は国禁を理由にレザーノフに退去を命じた。レザーノフはこの件で対日感情を極度に悪化させ、それが後に彼の配下フヴォストフによる樺太等の松前藩番所襲撃事件(1806年)を引き起こすことになった。
③フヴォストフ事件はやや過大に幕府に伝えられた感もあるがこれを契機にロシアとは対立関係が濃くなる。松前藩による統治が弱いと見た幕府は北海道西部を直轄にした(後に松前藩に戻す)り、警護を固める為に東北諸藩から3000名の兵力を北海道各地に派遣した。本格的な北方領土防衛である。
④この状況下で発生したのがゴローヴニン事件。1811年千島列島を秘密裡に測量中の軍艦ディアナ号の艦長ゴローヴニンが松前藩に2年3ヶ月間幽閉された事件である。
彼の配下リコルドの尽力や高田屋嘉平の協力もあってゴローヴニンは釈放された。

以上は対露政治的事件の骨格であるが、まだシーボルト事件(1828年)もアヘン戦争(1840年)も起こる以前である。書名の「黒船前夜」よりも「前々夜」みたいな前近代的というか牧歌的というか、緊急の切迫感が薄い時代の出来事のように思える。捕えられたロシア人は屋敷に滞在という丁寧な扱いで「入牢」ではなかった。互いに言葉を教えあったり相手国の内情を知りたがったり好奇心に満ちた関係であった。帰国時には先方が「多すぎるからいらない」と断るほどの土産物の山だったそうだ。
こうした緩い関係は、日露共に首都から遠い辺境の地で、しかも直接の接触者がそれぞれの出先機関であるとの強い現実性によるものであった。「国家」の観点からは統制が届かず恣意的であり、反面良くも悪くも「人間的」な関係であったともいえる。
これを先ずロシア側から見てみよう。
イルクーツクからヤクーツクの往来さえ難儀なシベリア中心部から更に先のオホーツク海沿岸。主に毛皮による利潤を求めて進出してきた広大な地域だけに、出先機関幹部と山師みたいな商人との癒着の思いのままに乱れた行政。組織だった民族結合もない現地人は各種の収奪に悩まされる。オホーツクでは大型船製造技術がないために貧弱な船で島伝いにカムチャツカ、千島、アラスカへと進出していった。
そこでは乏しい食糧等の補給港が必要であり、通商以前の切実な事情も存在していた。
時あたかもフランス革命からナポレオンがモスコワまで攻め込んだ危機。中央政府に余裕は全くない。「温和・平和的に解決せよ」の指示だけで一切が現地任せである。現地では賄賂や現地人虐待の事実があっても、とにかく成果を報告して恩賞・昇進の実利を得ようとする。
後には露米会社を創設して露領アラスカ(本拠地シトカ)から北米西岸ロスまで基地を求めた。ハワイ占領計画まであったという。暖かい地での補給が切実だったのだ。経営が成り立たずアラスカは1867年米国に譲渡された。アラスカの金鉱が発見されるまで米国では「氷に閉ざされた場所を何故買ったのか」と大反対だったそうだ。いかに辺境の地だったかがわかる。

一方、日本側でも似た状況にあった。幕府と松前藩との温度差である。
先ず松前藩は通常の「藩」というよりも広大な地域の「管理人」みたいな存在であった。
石高僅かに一万石(幕末に三万石)。米が採れないのである。そしてアイヌは日本人ではなく、従って領民ではない。単なる「原地民」なのである。だから「領民」と呼べる層はごく僅かなのだ。
大名間では「蝦夷大名」と蔑称がささやかれていた。そんな格下の立場だったのだ。
道東の一部は直接に統治できたが、アイヌの小部落が点在する広大な土地は少数の番所を置くばかりで、実際は元請け・下請け的な商人に多くが任されていた。数字感覚に疎いアイヌに勘定をごまかしたり、対価といえないような僅かの支払いや現物でだます悪徳商人も跋扈する。
アイヌの反乱はそうした事情で発生した場合が多い。ロシアと類似した光景でもあった。
ここには幕府の眼が届かない。幕府がロシアからの刺激で箱館奉行を置いたり間宮林蔵や最上徳内に調査を命じたのはやっと本書の時期であった。なお、この時期には大量に捕獲するニシンを内地の農地肥料に輸送するルートができて高田屋嘉平等の大商人も出現してきた。
近世北海道へのタイミングが揃いだしたのだ。
何故幕府はこの地への関心がなかったのか?本書p.204「蝦夷地は鷹・鷲羽・毛皮を産出し、それはいずれも徳川武家社会の武威を示す必需品である。だが、それは松前藩のアイヌ交易で入手できる。あえて蝦夷地を征服せねばならない理由にはならない。一方、松前藩はアイヌにゆだねているからこそ交易の利をあげることができた。アイヌとの交易こそこの藩の生命線である以上、蝦夷地を全面的に征服するなど愚の骨頂である」「だから幕府がこの時期に蝦夷地の幕領化に踏み切ったのは、経済的利潤を目当てにした植民地獲得の一般則に従った行為ではない。ロシアの南進という悪夢に脅かされた防衛本能の発動であり、日本近世ナショナリズムの最初の血の騒ぎだったのである」。

本書は2008~9年に熊日新聞に連載された。22年に他界した著者の眼は、著書「逝きし世の面影」と同じく暖かい。特にアイヌや出先役人に対する眼である。しっかりした資料調査の上の歴史叙述だが文学的香りが随所に香りたつ。幕府の支配が強まるにつれて松前藩は独自性が薄れて幕府への配慮に腐心せざるを得ない立場となる。即ち従来の「人間味」を失わざるを得ない息苦しさの場となる。僕は松前藩主の近縁の文人「蠣崎波響の生涯」(中村真一郎)を思い出す。これがきっと従来の松前藩だったのだろうし、同時に著者・渡辺にとっては「逝きし世の面影」のひとつではなかったのか。そんなことを思った。
更に同じ日本への一歩前の地でありながら表門の「琉球」と裏門「蝦夷」の差である。
ペリーの黒船は必ず琉球に立ち寄った。往路は日本の情報収集の為、帰路は緊張を解く慰安の地(狩猟等をした)であった。それは琉球が薩摩と清国の支配を受けながらも「琉球処分」(1879年)まではレッキとした「琉球王国」であった独立性に依る。一方松前藩は幕府の眼を常に気にする立場。この「開放度」の差は大きい。でもこの性質が日本人に組み込まれた際の両者の融和性の差には逆に現れた。「単一民族の起源」(小熊英二)に依れば、先にアイヌ、次に琉球人の順で日本人への同化が進んだそうだ。
こうして次第に思い出してくると、縁遠いと思っていたかつての「ロシア・アイヌ・日本の三国志」もあながち我々と遠い世界の物語ではなかったのである。
最後のページに出版元「洋泉社」の本のリストがあった。渡辺京二、田川建三、吉本隆明、色川大吉、森崎和江、上野英信、西部邁、橋爪大三郎、吉田満、石牟礼道子と錚々たる名前が並ぶ。
苦境の中のこうした「良心的出版社」の健闘を心から祈るばかりである。いずれ機会を見て「言葉の海へ」(高田宏)を読んでみたい。「言海」を完成させた大槻文彦の伝記である。