本牧読書日記。吉見俊哉「敗者としての東京」(続)。

前回に引き続いて、今回は家康幕府に依って塗り替えられた敗者「元々の江戸」はどうだったのか、を見てみたいと思います。本書では「多島海としての江戸」及び「クレオール的在地秩序」として描かれた世界ですが、僕には知らなかったことばかりで実に面白かったです。

以下に箇条書き風に書いてみました。


縄文時代の関東平野は鹿島、下総、筑波、大宮、武蔵野、多摩等の台地以外は入りくんだ湾で形成される多島海であった。細長い入江は例えば浦和から栗橋、下妻、更にその奥へと達する。そうした複雑な地形が多数存在していた。その後、次第に海は後退し現在に近い地形となったきた。その結果、今は内陸地となっている各地が当時は海岸線であり、そこには縄文人の貝塚跡が残されている。

B.C.2500年頃からの西日本は稲作文化の弥生人の時代となってきた。

弥生人は次第に東進してきて、縄文人は圧迫されて東北地方に移り住む。

そして紀元後に関東に進出してきたのが渡来人。彼等は金属加工、牛馬飼育などの先進技術と共にやってきて定住した。それが埼玉県等の地名(東京では狛江)に残っているのはよく知られている。

渡来人は人口比率で相当高い割合を占めていた。当時日本の推定総人口は10万人程である。

まして関東に限ったらいかに比率が高かったかがわかる。

渡来人は在住人と混血して「クレオール的在地秩序」を形成するに至った。

これが初期大和王朝時代の関東平野であった。

縄文人から渡来人、クレオールに至る名残りを見てみよう。


①東京湾岸一帯には小さな湊(「戸」と呼ばれた)がいくつも作られた。

東から青戸(砥)、奥戸、亀戸、今戸、花川戸、津久戸(筑土)、納戸(納戸町)……。

現在の日本橋から銀座にかけて半島状の砂州があり新橋駅辺りがその突端。この砂州こそが「江戸」そのものである(後の「江戸前島」)。西側には日比谷入江。そこには旧神田川が流れ込んでいた。

江戸前島には旧石神井川が流れ込む(画像)。


②渡来人文明の本格的拠点となったのは浅草・浅草寺。7世紀のことである。

浅草は利根川流域への拠点となった。大宮(氷川神社)→新座(新羅に由来))へと進出していく。

本書によれば日本神道の発展において、渡来人文明の進出に伴う精神的・軍事的前哨拠点であることがおおいに関与していたという。熊野→伊勢といったかつてのルートもそれだという。


③渡来人は大和朝廷の東日本進出の先兵だったのだが、やがて土着の有力者との繋がりの方が朝廷とのそれよりも深くなり、東国のエリートであるとの意識が強くなってくる。

特に秩父から日光にかけては鉱山開発や馬の生産地としての富と武力の結びつきが発展し「坂東武士」の原型が形成されるに至った(畠山氏の秩父平氏など坂東八平氏)。


④9C~10C、律令国家体制崩壊の中、秩父平氏諸勢力を糾合し東国の独立を宣言したのが平将門。江戸で彼と連携したのが江戸湊の武蔵武芝(竹芝桟橋の由来)。将門は後に神格化されて大手町首塚、鳥越、兜、築土、筑土八幡、鎧、稲荷鬼王そして神田明神で信仰の対象になっている。

神田明神が将門を祀るのが1309年、湯島天神が菅原道真を祀るのが1335年と、いずれも中世後期。それぞれ反朝廷のヒーローを神格化して祀り上げていく。家康も将門伝説を象徴的に称揚している。江戸統治において西の朝廷勢力への東国の対抗意識を押さえつけるのではなく、自らの統治の正当化のために巧妙に利用したということのようだ。


⑤話は遡って、京都と地方の関係が大きく転換する契機となったのが鎌倉幕府の成立。

頼朝や北条執権にとってクレオール化した在地の武士団が邪魔となる。

江戸では在地江戸氏の権力基盤の解体を画すために、尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて江戸前島から浅草一帯を支配させた。これが後に徳川幕府から大きな特権を認められた、皮革業者や芸能民などの総元締め・浅草の矢野弾左衛門に結びつくのである。

室町後期、衰え始めた江戸氏にとどめを刺したのが太田道灌であった。

彼は東国在地最大武士団・秩父平氏の力を決定的に削いだのである。


⑥このプロセスは敗れた江戸氏系の子孫と東京の地名の相関関係に残されている。

江戸氏の長男・太郎の子孫は今の千代田区に残り、次男の子孫は喜多見氏となって世田谷へ、三男は丸子氏となって大田区へ、四男は六郷氏で羽田方面、五男系統は柴崎氏・千代田区、六男は飯倉氏・港区、七男は渋谷氏・渋谷へと拠点を移して行った(渋谷はアイヌ語由来と聞いたことがあるので地名の方が先かも知れない。他でもそうした例はあるだろう)。更にこの江戸氏の系統から中野氏、阿佐ヶ谷氏、鵜木(うのき)氏といった在地領主が各地で生まれた。「江戸氏滅びて名を残す」だったのである。


⑦道灌は江戸城を築き、江戸氏、豊島氏を滅ぼしたが、江戸の繁栄自体は次第に失われていった。しかし、関東一円は相変わらず鉱物資源が豊かで牛馬の飼育も盛ん。浅草や江戸前島など交易の要衝もあったので、その潜在力は相当なもの。

家康は関東全域の産業基盤を支配するには地政学的に東京湾内・江戸以外なしと、大軍団を引き連れて入城した。これは秩父平氏を中心に古代から中世を通じて形成されたクレオール的土着秩序に対する決定的な占領であったと本書p.57にある。

かくして「元々の江戸」は最初の「敗者としての東京」となった。


こうした話は我々がよく知る地名が出てきたりして非常に面白い。

画像は本書の「武蔵野台東端の主な台地と川」。家康入城前と現在を合成した地図といってよいだろう。台地は北から上野、本郷、麹町、白金、大森。

それぞれ、上野は江戸時代は広大な敷地・聖地としての「寛永寺」。

明治になって幾多の博覧会などの会場、その後は市民文化・行楽の公園である。

本郷は学制の最高府・東大。麹町は大名屋敷、番町、靖国神社、皇居と密接の位置にある。

白金は高級住宅地。大森も上質の住宅地である。

こうした第一級の場所は何百年とその地の品格を保ってきたといえるだろう。

その他、文京区辺りの高台と低地、それをつなぐ坂の数々。そうした街の特色は広大な東京で数えきれないほど存在する。「ブラタモリ」や「アド街ック」の舞台である。


東京は「ブラックホール」の吸引力を増している。

人口第二の大都市・横浜さえ飲み込みかねない怪都・東京。その力の源泉は何か?

きっと、「勝者」ばかりではない「敗者としての東京」もあわせ持つからこそ、この巨大エネルギーを発しているのだ。火力に水の役割が加わらなくては強力な蒸気力は発生しないのだ。

本書を読んで僕はそれをはっきりと知った思いがする。

(6月12日作成、21日掲載)。