本牧徒然雑記。「6月暦絵・初夏雑感」。

5月27日・朝日新聞投稿欄にこんな投書(大阪府・無職・男性66歳)がありました。

題名は「財源問題避けず  堂々と国会論戦を」です。

「岸田文雄首相、堂々と「増税メガネ」と呼ばれて下さい。少子化対策にどうしても必要だからと導入した「子育て支援金」は、「実質負担ゼロ」ではなく「実質増税」だとしっかり主張して下さい。建設国債に手を出してでも、国際情勢を鑑み必要だとした防衛費増額は「将来の増税」だと堂々と主張して下さい。「増税メガネ」は勲章と考えては?必要な政策を行うにはお金が必要なのだから。一方、野党も選挙目当てのバラマキ「政策」ではなく、批判した論点に立脚した政策を打ち出し、与党との論点を明確にして下さい。今こそ国の在り方を正して下さい。子育て支援金の財源として公的医療保険料の上乗せでは、扶養する子の分も負担することにもなり、政策の趣旨にに反するので、合理的な政策を打ち出して下さい。過去の戦争の反省から、防衛費を借金で賄わないという、長らく守られてきた「原則」に戻した上で、日本の安全保障をどう確保するのか打ち出して下さい。与党によって形骸化された国会をどう立て直すのか打ち出して下さい。ワクワクする国会論戦で、私たちの足を投票所に向かわせて下さい」。


まさしく「正論」です。少なくとも「良識と責任感を有する市民」には支持される、そして誰でもわかる理屈です。恐らく岸田首相自身が「できればそうありたい」と思っている事でしよう。

根本的には現世代の「責任」の問題なのです。

次世代への「借金」を少しでも減らそうという誠実でまっとうな責任感の問題です。

政治家だけの責任ではない。国民全員とジャーナリズムの責任でもあります。

野党も「敵失」に乗じた勢いなどは一時現象。国民から「野党が政権をとったら国が喰っていけない」と見透かされているところが致命傷なのです。

それに気づいていないのか、気づいているとしたらどのように現実路線に転換していくのかが一番の問題点なのです。例えば膨れ上がっていく防衛費をどのように抑制していくのか、原子力発電をゼロにするのならどのようなエネルギー政策を推進するのか。「自然力発電拡大」は誰でも分かっています。それを実現できる方策を示せないから支持が拡大しないのです。

「具体的・現実的に」説明できなければ単に素人に毛が生えた程度の政治家なのです。

財政破綻を僕が眼にすることはないかも知れません。でもいつかは到来する事でしょう。

この投書と同じ紙面のコラム「序破急」(画像)にも財政危機への懸念が載っています。

一方、次のページの全面記事は「ジャニーズ問題  見えぬ解決」です。

一体「ジャニーズ問題」は我々にどのような「問題」を突きつけているのでしょうか?

朝日新聞でさえ紙面の半分は三面記事で埋め尽くされているのです。


現在、僕は森岡正博「無痛文明論」(トランスビュー)を読んでいます。

大阪府立大教授(生命学・哲学・科学論)の著者は当書p.75に書いています。

「無痛文明論が「戦い」を強調するもうひとつの理由は、愛というものをやさしさや慈しみの心でのみ考える人々が多いからである。たとえば小林司は次のように書いている。「愛とは、個人もしくは複数の人に対して、相手のしあわせと成長とに心づかいをし、共感的に相手を理解し、優しく扱って、親密感と愛着を抱き、すべてをありのままに受容して許し、無条件で自分を与え、ともに成長すること」。無痛化する現代社会の中で、このような美辞麗句を繰り返しているだけでは、けっして「相手に条件を付けようとする心」を自分から引き剥がしてゆくことはできないであろう。自分自身の「身体の欲望」と社会の無痛化を根底から問わないような愛の理論は、不毛である」。

前後の論点を省略しているので分かりにくいと思いますが、端的に解釈すれば優しさと美辞麗句が溢れ返り、前回ブログの名言「ニューヨークでは好奇心と慈善心が背中会わせになっているんです」を彷彿とさせるような社会、それが今の「無痛文明化」した日本で我々を取り巻いているのではないか?との指摘だと思います。小林司が描くような「優しさ」の美辞麗句が新聞にもTVにも安易に溢れ反っている、そして「無痛文化」に慣らされた人々はあたかも自分もその実現者のひとりだと錯覚している。

そこでは本当の「愛の理論」は不毛である。こうした主張のように思われるのです。


僕はコロナ発生頃から急速に新聞を読む時間が短くなり、かつTVの一般番組を見る事も少なくなってきました。何故でしょうか?

きっと「無痛文明論」で指摘されるような現象に嫌気が差してきていると思い当たります。

「優しさ」と美辞麗句の氾濫に食傷しているのだと思います。

TV一般番組に興味を失った反作用は、専ら録画ばかりを見ていること。

録画はNHKの「プレミアム・カフェ」みたいなプレミアム番組。それに音楽番組。

先月のオペレッタ「こうもり」は楽しかったし、その後はミラノ・スカラ座の「ドン・カルロ」。こちらはリッカルド・シャイーの監督・指揮。歌手も特にエリザベッタのアンナ・ネトレプコが素晴らしかった。彼女はロシア人が故に微妙な立場だったらしいですが(ワレリー・ゲルギエフはプーチン寄りで西側から干されている)、復帰しているようですね。ミラノ・スカラ座ではかつてCDのジョゼッペ・シノーポリやミレッラ・フレーニが大好きでした。クラウディオ・アバドや最近のマウリツィオ・ポリーニと、みんな他界してしまいました。懐かしく、かつ残念な音楽家達の思い出です。

僕の中で音楽の時間は更に拡大していくことでしょう。


この2~3週間で自分の生活自体もかなりの変化が生じました。

第一に自分の部屋を移したこと。子供・孫の来訪時の使用だけで通常は空室だった、より広い隣の部屋と交換しました。孫も上が大学生となり泊まり掛けの「全員集合」の機会が消滅したのです。

新しい部屋はベッドも入るし「断捨離」したらびっくりするほど快適となりました。

「念のため保存、いつかは使うだろう」の書類・物品がいかに多かったか!

自分の記憶に収まらない書類なんて結局不要なのですね。

第二は今まで定着しなかった食事作り分担。レパートリーは手が掛からないものばかりですが二十数種類あるので、それらを回転させれば半分とはいかないまでもかなり妻の負担を軽くすることができます。家事を妻に頼っていたことは反面自分の「独立性」を阻害していたことに気づきました。

これらの変化で、夜更かしを気兼ねなく楽しめるし(現に今・1日深夜はFMのジャズ・「ナイト・アンド・デイ」特集を聴いています)、単独外出も増えるでしょう。

中断していた「将棋」の楽しみが復活するかも知れません。

ブログも新たな気持ちで継続します。

作成者にはAmeba事務局からデータが入るのですが、その中の「最近アクセス・ベストスリー」で何と21年1月の「<意識>とは何だろうか」が入っていました。

これ程以前のブログを読んで下さるとは感激です。


以上「初夏雑感」でした。