本牧読書日記.。キリーロバ・ナージャ「6ヶ国転校生・ナージャの発見」(集英社インターナショナル).。

先ず著者のユニークな経歴を紹介しよう。

レニングラード生れ。数学者の父・物理学者の母の転勤と共に6ヶ国(露・日・英・仏・米・加)の地元校で多様な教育を受けた。現在クリエーティブ・ディレクター。電通とも関係が深い。

転校ヒストリーは6歳小1・サンクトペテルブルク―7歳年長・京都―8歳小3・ケンブリッジと9歳パリ―10歳小4東京―11歳小5・米ウィスコンシン州―12歳・東京―13・4歳中1・2モントリオール―15歳中3・札幌。という目まぐるしい移動と転校である。

先ず親はどういう研究組織を移動したのだろう?しかも2人揃って……との疑問が生ずる。

ソ連崩壊に伴う海外移住かも知れないが、極めて特殊な頻繁移動である。

親の事は一切といってよい程出てこない。「子供自身の経験だから関係ないでしょ」との著者の方針なのかも知れないが、未だ幼い未成年者である。学校経験は家庭と平行しての生活だから関係ないことはないはず。そのあたりに僕は本書に一抹の「作り物の臭い」(表現としては適当ではないが…)を感じざるを得なかった。決して「嘘」ではないが話を面白くするための、いわば民放テレビに出てくるコメディアンに感じると同じような「臭い」である。


いずれにせよ実に特異な子供時代である。著者も今は冷静に振り返って見る事ができる。

「大人になったナージャの発見」の章にある。

①質問「環境が変わると、ガラッと変わるものは?」

答「ふつう」だ(各地での「ふつう」が違うだけ)。「ふつう」こそ「個性」の原料だ。

②「苦手なことは克服しなくていい!」。

③「人見知り」でも大丈夫!しゃべらなくても大丈夫!(人見知りは立派な長所)。

④どんな場所にも必ずいいところがある。(英国では)苦手な科目があっても大丈夫。(仏)アウトサイダーだと感じない。(日本)発見するチャンスはたくさんある。(米国)とにかく褒められる。…等々。

つまりすべて積極的に肯定的に前向きにとらえているのである。これには感心した。

本書の大部分は具体的なディテール。「筆記用具」「座席」「体育授業」「学年編成」「ランチ」「数字」「テスト」「満点とは?」「水泳」「音楽」「ノート」「お金」「校長先生」「夏休み」「科目は?」の各国様々な違いで、例えばカナダの授業の邪魔をする悪ガキはすぐに校長室に送り込んで校長が対応し、授業は滞りなく進められる……は日本で採用してもよいではないかと思ったりする。

でもこんな事例は何十万人といる日本の教育関係者はとうに承知だろうから、素人が口に出すべき事柄ではない。若い学校教師のなり手が不足している一因は「モンスター・ピアレンツ」である。本書に感化された軽率な若い母親が学校に何かを強要するような事態が起こらないことを願う。

全体的にいえば日本と似た画一的な初等教育風景にはロシアのそれが近い感じがした。

著者はそれはそれなりに評価している。決して日本教育方式の非難ではない。

これも本書に好感を持てるひとつの理由である。


著者の結論は「おわりに」にまとめられている。以下にそのまま転記する。

どこの国の学校がいちばんよかったですか?わたしにとっていちばんよく聞かれて、いちばん答えに困る質問が、実はこれ。なぜなら、正解がないと思っているから。あるいは、数えきれないほどの正解があると言ってもいいかもしれない。筆記用具として、えんぴつがベストか?ペンがベストか?ということに絶対的な正解がないように、「親と一緒に登校する、一人で登校する」「自己主張する、調和を大事にする」「7に横棒をつける、7に横棒をつけない」「計算機を使う、暗算をする」「カタチから入る、目的から入る」「自由にやる、ルールに沿ってやる」「個人プレーで戦う、チームプレーで戦う」……どちらが「正解」というわけではない。国によって先生の言うことも180度違うことを、何度も経験してきた。ずっと「正解」が変わり続ける環境の中で「誰かの正解」は、必ずしも「自分の正解」ではないことにも気づいた。講演などで大人の統計を取れば、だいたい自由に見えるアメリカの学校が一番人気で、グループで学ぶイギリスの学校が2番手になる。でも、低学年の子どもだと、なんと大人が選ばない日本の学校が一番人気!高学年になれば人気の学校はまた変わる。いつなぜこの違いが生まれるのかはまだ発見できていないけれど、一番人気が変わるのは考えてみれば当たり前。

人見知りにとって、とにかく自己主張を求められる環境はつらいし、逆に自己主張が得意な子どもは、自分の意見を殺さないといけない環境につらさを感じるに違いない。褒められて伸びるタイプもいれば、プレッシャーがないと力を発揮できないタイプもいる。チームワークによって、飛躍的に活躍する子どもも、個人の方が能力が伸びる子どももいる。同じ家族でも、親にとってのベストと子どもにとってのベストは違うし、兄弟でもベストは異なる。同じ国の学校でも、今と30年前とでは違うところが必ずある。かつてのイギリスの教室が、今のアメリカの教室に、フランスの教室が今の日本の教室になっていたりする。読み書きができることが当たり前になれば、次に社会が必要とする能力を身につけられるように学び方がシフトする。だから「絶対的な正解」をみんなで探すのではなく、一人一人の「正解」をみんなで見つけていくしかないのだ。それが、6か国転校生ナージャのいちばんの発見なのかもしれない。


こうして転記してみると、実にまともな本ですね。

冒頭に親に触れないことに「難癖」をつけたことを反省します。

でも、もう一度よく考えてみると、最後の結論「一人一人の「正解」をみんなで見つけていくしかないのだ」ってムード的には分かる気がしますが、実際にはどういうことを指すのでしょうか?

その人毎に違う「正解」、その人が見つけるべき「正解」、それを「みんなで見つけていく」とは超難しいことだとも、またそうした援助を今現在親や先生が必死になって工夫し実践しているともいえるし、本当のところ僕には分かったような、分からないような妙な結論なのです。

実は「結論」なんてない本なのでしょう。あるいは結論は不要な本なのです。

だからこんなことを読後に書くなんて僕が「野暮」なのかも知れません。


もうひとつ「野暮」を書きます。

本書は図書館申し込みから百何十人待ちの、手にした時にはいつ申し込んだのか忘れていたくらい人気殺到の朝日新聞書評本でした。でも読んでみると内容の余りの軽さにビックリ。

子供向きの絵本のような体裁と内容なのです。

「朝日書評もそういう時代になったのか」との感慨に襲われます。

同時に手にした「時間はなぜあるのか?」は予約ゼロですぐに借りられました。

共にマンガチックな表紙なのに、両方の本の内容と予約人気の大きなギャップ。

この現実こそが時代遅れの僕にはショックなのかも知れません。

(付記)今日は5月3日・快晴。このブログは投稿しようか否か迷いましたが、折角書いたし週一冊は維持したいので送信します。今朝見た山田監督と黒柳徹子のテレビ対談「渥美清を偲ぶ」は心に残る番組でした。山田監督の姿は僕の理想の老年期です。これから海岸通りで昼食と「横浜パレード」を見に外出の予定です。