本牧読書日記。辻井咲子「百人一首  百人の物語」  (水曜社)。

僕は日本古典文学に縁遠い人間です。教科書にあった文章以外に接したことは極めて少ない。「源氏物語なんてどこがそれ程に魅力なのだろう」と読んだこともないのに疑問に思っています。

でも「百人一首」は子供の頃から親しんでいる「文学」というより「風俗」として例外。

本書は朝日新聞書評を見て読んでみました。

著者は東京教育大・芸術学部卒、長年デザイナー育成事業に携わり退職後「百人一首」注釈を研究(古今驚くほど多くの注釈本がある)本書は同人誌に連載したもの。実に立派な第二の人生です。

でも、読んでみて疲れました。70首を越える頃からいい加減に流し読み。結局僕は散文好みで詩歌、しかも古典には相性が悪いということなのでしょう。客観的「事実」を積み上げたような内容に興味があるから、テクニックを弄した文学世界についていけないのです。

通い婚・重婚的男女関係や再婚が多く、作者達の込み入った家系や名前が頭に入らないし、男女間・恋愛関係の表現ばかりが続くと、それが歌合わせや社交上のイメージやテクニックからの必要性とは分かっていても(池田弥三郎は「「嘘で画いた絵」即ち「絵空ごと」があるのだから和歌で同様のことがあってもよいだろう」と書いている)、恋心の深さを六段階に分けて論ずる詩論まで登場すると僕は鼻白んで「空々しく」感じてしまうのです。以下に数首の印象を記します。


「嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」(右大将道綱母)。

作者は「蜻蛉日記」の著者。三十六歌仙に入る歌人として知られた才女である。彼女に藤原兼家が通い始めて一年余、子の道綱まで生まれたというのに夫・兼家は度々家を空けて別の女のもとに通う。ひとり寝る夜の明けるまでがどれほど長いものかあなたは知らないだろう、との意味である。

この歌が記憶に残っているのは20年前に読んだ竹西寛子「贈答のうた」(講談社)にとり上げられていたから。この著者・竹西も実に才女。和歌が贈答(歌)と密接で「歌垣」の時代からの伝統であること、そして女性がその才能の故に味わう苦悩(道綱の「母」というだけで名前の明記がない)を明確に伝えてくれた。ただ、本書によれば夫・兼家は浮気だけのボンクラ亭主ではない。後に激烈な競争に勝って摂政にまで昇進している。優秀な夫婦同士だけに感情と歌のやり取りにはすさまじいものがあったのだろう。

「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)。

これも才女の有名なエピソード。和泉式部の娘の作者にオジサン中納言が「歌合の歌はどうするんだい?丹後のお母さんに頼んだんだろ?返事はまだなのかな?どんなに心細いことだろう」とからかって立ち去ろうとした折に袖をつかんで詠んだ歌(本書p.122)である。これはフィクションらしいがここまで面白く作り上げられると語り継がれて真実がどうであれ取り消すことができない。うら若い美貌の才媛、それを「親の七光りだろう」とふざける中年男。千年前の昔から変わらない風景である。


百人には確かに女性の作者が多い。和歌が才能を発揮する稀少の場だったのだろう。

特に第53首「嘆きつつ…」から第62首までは一首(55)を除いて連続して女性作者が続く。

第53首「嘆きつつ……」(右大将道綱母)。

54「忘れじの行末まではかたければ今をかぎりの命ともがな」(儀同三司母)。

56「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」(和泉式部)。

57「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに雲がくれにし夜半の月かな」(紫式部)。

58「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(大弐三位)。

59「やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」(赤染衛門)。

60  前記の「大江山……」(小式部内侍)。

61「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」(伊勢大輔)。

62「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」(清少納言)。

まことに和歌の王道・銀座通りを堂々と進む華やかな女性パレードを見る心地がする。

西暦1000年前後「国風文化」(今年2月ブログ)仮名文学最盛の時期である。男性の漢詩、女性の和歌の垣根がなくなって僧侶までが和歌を詠むし清少納言のように漢詩の素養ある女性も現れる。

ここに登場した9人の女性は共通して国司などの下級貴族の娘であるか、藤原氏の本流にいながら権力から外れた家柄の娘であり、歌人や学者の家系に生まれた人が殆どだそうだ。親から子に教えるという家庭内教育の方式が貴族の社会では広く定着していたのだろう(p.127)と推察される。


我々は男女を問わず百人一首の中に「推しの一首」を持つ。

僕の場合は46「由良の門(と)を渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋のみちかな」(曽禰好忠)。

理由は近代人の憂愁を想わす歌だから、そして京都勤務時代に度々訪れた丹後・由良川の豊かで素晴らしい流れが舞台であるから。この優雅な和歌の作者の面影は平安貴族の貴公子を思わせる。

ところが「曽禰好忠は歌人としての力量はあったが偏屈で自尊心が強く、宮廷という社交界とは相容れなかった。……ある歌会に召集されていないにもかかわらず歌人の席に座り力ずくで追い出された事件があり、この時逃げ出した好忠の背後から居並ぶ貴族達が手をたたいて笑い合ったと「大鏡」「今昔物語」にある。一方「小右記」等には好忠も召人に入っていたと書かれている」(p.94)。

ところで女性作家が華やかな中間期、それ以前の前半で活躍した作者達の家系の和歌は後半では途絶える。本書ではそれを「古代氏族の没落」と表現する。そうした氏族とは安倍(仲麿)、小野(小町・篁)、文屋(康秀、朝康)、大江(千里)、菅原(道真)、壬生(忠岑、忠見)、紀(友則、貫之)、曽禰(好忠)等の諸家だという(p.104)。つまり「由良の門を……」の曽禰好忠はそうした一族の最後の人物だったのだ。そこに前記のエピソードが残された背景があったのだろう。

古代氏族の没落と共に迎えた藤原氏の全盛もやがて栄華が尽きる。本書では「男子の家系が途絶えたため」と書いているが、更に根本的には政治・経済体制の歴史の転換であろう。「武士階級の台頭」である。この辺の時代の本も機会を見て読んでみたい。


僕が日本古典文学と接した唯一の経験は15年程前浦安時代の最後の頃、市民講座「伊勢物語」(講師は地元女子大の女性教授)の受講。週末一講で3ヶ月間位だったと思う。それなりに面白く以後「伊勢物語」は随一の古典文学だと評価している。「伊勢物語」のモデルは在原業平。

17「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」の作者である。

ところで、この絶世のモテモテ美男子の一首は今や落語や漫画にまで登場して広く有名な和歌になっている。落語の元の話は既に江戸時代からあり、それが工夫されて今でも最後の「「とは」とは花魁・千早の本名」のオチで寄席客を沸かせる傑作なのだ。

こうした場面でも「百人一首」は国民文化に咲いた大輪の花なのだろう。

有名な紀貫之一族が後世に没落した家系とは意外であった。

35「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける」(紀貫之)もそうだが、

いとこの友則33「久方の光のどけき春の日にしづ心なく華の散るらむ」は誰の心にも通じる名歌である。あらゆる人々の感情に埋め込まれている。

遅かった今年の桜も散ってしまった。一年で一番の好日を迎えるこの季節の歌である。

「あまり書く材料がないな」と思って書き始めた当文も、とどめもなく続きそうである。

「縁がない」と思っていたこの世界も自分と切れることのない場所だったのだ。