本牧読書日記。網野善彦、阿倍謹也「対談・中世の再発見」・市・贈与・宴会  (平凡社)。

4月に入ってからの二回のブログは偶然にも「阿部謹也」という共通項で連結された。

「4月暦絵」高校時代の思い出話での「上原専禄」と「世間体国家・日本」での阿部謹也の有名な「世間論」(「日本に社会はなかった。あったのは世間」)と……。

そこからの連想で今回は90年代の懐かしい本書を取り出して30年振りの再読を試みてみた。

元々の対談が実施されたのは1982年のことである。この対談をきっかけとするように両氏が次々と著した画期的な著作の数々。僕が読んだ範囲だけでも、網野氏の「無縁・公界・楽」「異形の王権」(どの本か忘れたが僕は例えば「川の民」と「太子信仰」について知り「境界」について関心を持った)。阿部氏の「中世の窓から」「ハーメルンの笛吹き男」「中世を旅する人びと」「中世賎民の宇宙」「西洋中世の罪と罰」等々。これらは僕の90年代の読書の中核を成す分野であった。

就職してからそれまでの30年間ほどは、仕事以外の本といったらフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」等のエンタメ本や司馬遼太郎や吉村昭がせいぜいだった。

90年代に入って数年後、50代半ばを迎えてやっとこうした分野に眼が向いてきたのだ。

本書は94年の再版だから丁度その頃だろう。マレーシア駐在勤務の弟の一時帰国時に本書について話した記憶がある。それだけ読後印象が強かったのだ。

まだ読書リストも作っていない頃で、僕には新しい世界を開いてくれた本であった。


本書で語られる数多くの話(「市と芸能」「売買と贈与」「宴会ともてなし」「徳政と時間意識」「有徳の意味」「「公」とは何か」)については今や多くの人々が知っていることで、敢えて僕が拙い筆で書くのは憚られる。ここでは2~3の感想でとどめよう。

①冒頭の網野氏のイントロ話=ペルーに旅行して街頭の店屋で品物を買おうと値段を聞き財布を取り出したところ案内人から即座に手をピシャリと叩かれて制止されたこと。定価売買はごく近世のことで長い歴史に「定価」はない。お互いの駆け引きで値段が決まるのが普通で、ペルーにはそれが残っていたのだ。確かに定価とは取引を円滑・迅速に成立させるための短期の「仮の価」ともいえる。「需要」と「供給」曲線の交点で価格が決まるのは経済学の第一歩であり需要と供給は常に動く。原油価格等は正にそれである。通常の商品だって値引きは当たり前だし観光地ホテル代などの季節毎の変動は合理的な動きである。最近まで公共交通が繁閑時間に応じた変動価格でなかったのは不思議な位だ。その意味では現代経済だって全てが「定価」で動いている訳ではないのだ。僕は自分の「思い込み」に気付いた。


②どうしても想像できないのは、中世以前では売買と共に純粋の「所有権」が完全移転するのではなかったということ。土地や物品には何か呪術的な「本性」みたいなものがあって、元の本来的な持ち主にそれは留まっているような感覚。「贈与」から物の移動の歴史が始まった(ここでは「有徳」(権力者からの贈与)の意味が大きい)、その残滓みたいな考え方なのかも知れないのだが、近代の商取引に慣れた感覚ではどうしても理解できない。でもモースの「贈与論」に見られるようにこうした時代が実に長かった事が明らかになってきている。借金・借財帳消しの「徳政」にはそうした「元の持ち主に返却する」とのいわば「理屈」が働いているのかも知れない。と、これは僕の想像である。

でもその「徳政」にも献金・賄賂により逃れる抜け道があったと聞くと更に混乱してくる。権力(幕府)窮状打開が本音の強引政策だろうが「何故あれ程不合理な徳政政策が度々行われたのか」については、どの程度の徹底があったのかとの疑問と共に消えることはない。現代では想像できない心理や実態があったのだろう。中世はまさに「魔宮」。だからこそ他に比較できない魅力を持つのだ。


③こうした旧来の慣習から現在の商取引の原型の萌芽が見いだされるのはいつ頃のことだったのだろうか?阿部氏の見解ははっきりとしている。欧州では11世紀であるという。それ以前の時代からの来世での救済を願ってのキリスト教への献金・献納はよく知られた歴史だが、11世紀に至ってキリスト教が完全に普及・普遍化し強固な社会規範となった「構造」が完成したからこそ「商取引」が実現したという。欧州社会・文化のキリスト教を基盤としての「構造性」については我々もその建物や街並みからもよく分かる。実に堅固・堅牢な構造だ。この構造のお陰で商工業ギルドや都市の発展、周辺農村との共存と、反面、賎民やユダヤ人、漂白者の存在……とお馴染みの「物語」が展開されたのである。

キリスト教支配がそれらの「安定的構造」の基盤となって中世欧州を成立させたのだ。


④対して網野氏は「日本の場合はその転換期がどうもはっきりしないのです。そこでは構造性の弱さが起因しているのかも知れません」と述べる。この辺の議論も僕には直感的に納得できる。温和・中和的な「曖昧性」にも通じるこうした思想基盤、それは僕にも内在するものだけに実感・体感できるのである。更に両氏の見解は世界史的に見れば中世欧州の方が例外的・特殊であって、転換期がはっきりしない方が一般的であろうとの結論に達している。これは現在学校で教えられる「新しい歴史」の考え方に一致している。先進の欧米中心の世界観からの脱却である。我が国の歴史教育の新しい潮流であるようだ。でもこれも極端に過ぎると弊害が懸念されるように僕には思える。何故なら日本人の価値観や生活文化そのものが欧米と一致している訳ではないが、基本的視点が欧米流に立脚していることだ。その意味でも「中間的な曖昧さ」は安定的な「日本(人)の良さ」に通じるのではないだろうか?


今回本書を再読して新たに気付いた点は「社会史と歴史学の伝統」の章にあった。

本書で対象としているアナール学派的な社会史的な「歴史学」が、従来の文学部・史学科における西洋史、東洋史、国史という明治以来の官許の分類ではなくて、一橋大学という商科大学で上原専禄や三浦新七という新しい眼で開拓されていることである。いわば伝統的な史学を「A面の歴史学」とすれば異端的な「B面の歴史学」ともいえるだろう。

異端視された大きな理由は、B面の歴史学は社会史や民俗学、更には人類学に近い分野にまで考察を及ぼしている、学界テリトリーとして「歴史学」から逸脱する部分があるとの見解である。

僕はこうした固陋(ころう)な考え方が存在したことを初めて知って実に驚いた。

そして思い当たった。そうなのだ!僕が70年前の上原専禄の高校教科書で知った新鮮味は実は「歴史年表」的なA面の歴史ではなく、生き生きと生活する人びと、刻々と変化する生き物のような歴史の躍動を分りやすい記述で僕に教え込んでくれた感動だったのだと、はっきりと気付かせてくれた。

実に70年後の気付きであり、改めての感動なのだ。世の中にはこんなこともある。

今や歴史と言えば特に一般人にはB面の歴史である。

そこで我々は世界の、社会の、人々の本当のすがたを知る。

そして一橋大学では恐らく主流ではない上原教授や阿部教授が学長にまでなったのである。

当時は気付かなかった時代の大きな「うねり」だったのである。


改めて振り返ると本書は僕の読書歴では「始点」となる対話本でありました。

そしてその数年後から手もとの手帳に記録を始めた読書リストの第一冊目「荷風と東京」(23年11月ブログ「ひとり遊びぞ我はまされる」記載)から現在に至る読書習慣がスタートしたのです。

現役時代には中断や読んだ冊数に粗密があるのでそのままが実期間といえませんが、とにかく読書の趣味・習慣なしには僕の人生観は大きく違ったものになっていたことでしょう。

本書でそんな事を思い起こして少々感傷的な気分に襲われました。