本牧徒然雑記。「4月暦絵・奥武則「むかし<都立高校>があった」(平凡社)。

僕が小山台高校を卒業した8年後の1967年、都立高校に「学校群入試制度」が導入された。

大学入試激化に伴い都立高校がはっきりと序列化され、その是正の為に当時の小尾教育長が有力紙協力のもとに「あっという間に」(本書)、決定して実施された制度である。

この制度では学区の数校の中から生徒が希望する高校に必ずしも進学できない。

例えば優秀な生徒が日比谷高を志望しても三田高を目指しても進学できない。

試験の結果の平均点で各校が平準化されて最寄り高などへの入学が指示されるのだ。

有力校では優秀な生徒が揃う訳ではないのだから例えば東大合格者はガタ落ちとなる。

当然都立高の評価は大幅に低落した。制度に反対した父兄達が恐れた通りである。

毎日・朝日などキャンペーンを張った有力紙はすぐさま批判者となった。よくある無責任ジャーナリズムの豹変である。この制度は悪評で十数年後に改定されたが、もう取り返しはつかない。

かくして現在の私立高絶対優位の序列化が鉄壁の如くに確立したのである。

結局は公立高の序列化が私立高の序列化に置き換わっただけ。都の教育関係予算は総額で相当な額だろう。その公費が本人・父兄が希望する「進学校としての都立高」には実現していない。

もうかつての面影はないのだ。だから本書題名は「むかし<都立高>があった」となる。

この悪制度はある年齢以上の出身者には忘れられない惨事である。母校を「メチャメチャにされた」からだ。怨嗟の声はいまだに絶えない。著者は毎日新聞論説委員で新宿高校出身。学校群成立の経過とその廃止の顛末を詳しく書いている。

人間社会は競争原理で動いている。「学力による競争」は最も公正であり、貧富や出身の差別なしで個人の能力が知的尺度で評価されるのだからこそ納得されるのだ。「学校群」や「ゆとり教育」のごとき不自然な教育行政は長続きしないし、その後に長期の弊害の痕と犠牲者を残す。


……と息まくほど、自分は受験勉強の優等生ではありませんでした。

「勉強しなくては」との気持ちは強いのですが、実際にどうであったかと振り返ればいまだに後悔するところは大きいです。同時に人生で一番多感で吸収力の強い時期ですから、学習から得たところが現在の「物の考え方」の基礎になっていることも否めません。

英語教育については前回の「暦絵」に書きましたので今回は社会科系統について書きます。

最も記憶に残るのは世界史の教科書です。執筆の一橋大・上原専禄教授(当時は著名な学者が高校教科書を書いていた)の記述からの感化は大きかったです。「歴史を見る眼」の初めての経験でした。世界史の流れを的確にとらえた内容で、要点が頭の中に自然に入ってきました。そこで重要なことは「自分の現在」がどのような位置にあるかにまで考えを及ぼさせてくれたことです。僕は何回か読み返しました。この教科書は実に70年後の今の今にも心の底で活きている思いがします。上原教授は阿部謹也の先生。後の読書で結構読んだ中世ドイツ、ヨーロッパの世界を教えてくれた教授達です。

当時の授業風景は例えばH先生の世界史。中世から近世へ移るメルクマールとしての1492年の意味。コロンブスの新大陸発見やグラナダ陥落だけの年ではないのです。15C後半から16C前半にかけて政治体制、経済、都市と農村、宗教、文化、人々の意識など近世への大きな変革期を迎えたこと、その歴史的意味合いを教えてくれました。H先生は教頭で愛想はない。「体制側」ですから生徒は敬遠気味。

でも僕は先生の見識と一生懸命の気持ちはよく分かりました。

以前に書いたことですが、ちょっとグズっぽい日本史K先生から「尊皇派は実は「攘夷」など出来っこないことを分かっていた。倒幕目的の為に幕府に難題を吹っ掛けたのだ」と教えられて「目からウロコ」を覚えたことがあります。以来同様の場面をTVの議会画面等でどれだけ見てきたことでしょうか。

体制派やグズっぽい教師だって生徒側は「知らないことを教えてくれる先生」がちゃんと分かるし評価するのです。だから予備校教師が「尊敬する教師」に挙げられるのです。教師像については様々な意見が飛びかっています。学生側はいつの時代でも「知らなかったことを教えてくれる、考えるヒントを提供してくれる教師」を識別できるし覚えているのです。両先生とはこの他の接触は全くありませんでしたが、こんなことが忘れられない高校時代の記憶として残るものなのです。


何回かに渡って数学、英語、社会科の「高校時代」について書いてきましたが今回を最終にして、ここからは時代背景について書きます。

1956~60年(経済白書「もはや戦後ではない」から「60年安保の春」まで)の4年間。

当時は「一浪なんか当たり前」だったので僕も人並みに一浪しました。予備校に行く生徒も多いし高校には「補習科」という教室が設けられ先生方が手弁当で指導してくれました。そちらに通う浪人生も結構いて、今では考えられない、というよりは禁止行為でしょう。

僕はそこに通いましたが、学力はたいして伸びませんでした。

結局慶大・経済に進学しました。「落ち着くべきところに落ち着いた」形です。

因みに中学・高校を共にした4人組のK君は東大・医学部、H君は東大・工・建築学科、A君は東京農工大です。4人共中学クラス会で今もお互い元気に顔をあわせます。

そこで初めて知ったのは、H君が高校在学中に単独で学生運動に参加していて担任教師から密かに注意を受けていたとの彼からの話です。学生運動のテーマは主に「原水爆禁止」。ある派は「アメリカの原水爆実験は悪だがソ連のそれはやむを得ざる自衛」との今では考えられない主張なのです。時は「60年安保」前夜。「警職法改悪絶対反対」の時代です。H君の父親は戦中最大の思想弾圧事件「横浜事件」の被告のひとりで横浜国大教授。彼はその影響も受けていたのでしょう。

当時の大学生や青年の風潮は「ノンポリ」と「反自民、親社・共」でした。

中学時代の自分史で書いた通り、周りの社会状況から僕の心中は「貧困は諸悪の根源」であり、ヒューマニズムから発した社会主義的な傾向でした。若者が頼る「理論」はマルキシズムないしは穏和化された社会主義しかなかったのです。それと岸政権の「反動」や自民党に今でも残る「古い体質」に対する嫌悪感が合わさった感情だったといえましょう。60年代から結実してきた「修正資本主義」路線が現実的に我々の眼前で見せてくれた経済重視・高度成長は、まだまだ貧しい社会保障や福祉の状況から将来の「日本像」としての現実感を伴なわっておらず、こうした事情は大学入学の頃から急速に変わってくるのですが、その辺りは次回に再度書くことになると思います。


「日本の貧しさ」は数多く残存していました。今でも当時の街頭風景の古い写真が出てくると思い出します。その時代を懐かしむ「ちゃぶ台とこたつの茶の間」映画が作られています。

しかし大転換期でもありました。

産業構造の高度化に伴い農漁村から都市部への人口大移動。消費時代の前兆。現上皇・美智子さん御成婚を契機にTVの普及、電化の団地生活……とイメージできる時代の始まりです。

武蔵小山の高校三階屋上から、芝に建設中の「東京タワー」が日に日に上に伸びていくのがよく見えました。間をさえぎる高層ビルが全くなかったのです。

高3のクリスマスイブだったと思いますが、東京タワー・アンテナからの放送が開始されました。確か「ラジオ関東」。当時の深夜放送でよく流されたのが「世界は日の出を待っている」。よくバンジョーで弾かれる軽快な曲。まさしく「サンライズ・日本」の払暁の曲だったのです。

でもそんなことを書くとは受験勉強に身を入れていなかったと白状していることになります。

その通り。当時の受験生にも必ず青春の時間帯があったのです。

このブログを読んで下さる方には高・老齢の方も多いと思います。

それぞれに違い、かつ似たような高・大・青春時代を懐かしんでいらっしゃることでしょう。

その多くは現代の若い層には通じない世界です。

でも今でも昔の懐メロが流れたり「東京ヴギウギ」が度々テレビ画面に登場するのを見ると、見ているのは老人ばかりではない、服部良一メロディーは現代の若者達にも共感するところがあるのではないかと僕は期待するのです。懐古やセンチメンタリズムだけではない「何か」、それを書き残したいと書いてきましたがとても不十分なものでした。でも、とにもかくにも70年ほど前の都立高校生の一つの「典型」ではあったと思います。昔話にキリはありませんが「5月暦絵」からは大学生時代に入ります。