く本牧読書日記。「100分で名著」テキスト、ル・ボン「群衆心理」

・熱狂が「私」を蝕む。理性や良識が易々と消え去るのはなぜか?(NHK出版)。

医師であるル・ボン(1841~1931)は帝国主義が高まる1895年に本書を著し、産業革命と市民革命によって近代化された社会を動かすのは群衆であるとして、その心理を分析した。

彼が取りあげたのはフランス革命とその後の19世紀社会。啓蒙思想の「正」の部分から発動したフランス革命が、すぐさまロベスピエール=ジャコバン恐怖政治という「負」の部分に暗転、ナポレオン独裁へと突入していく。そこではなぜか理性は易々と消え失せ、衝動的で昂奮しやすい自動人形のような大衆、単純さを好み、偏狭で横暴、かつ独裁者に本能的に隷属する群衆(以上は本書の項目から借用)が跋扈した。これを「群衆心理」と名付けたル・ボンは実に将来を正確に予言していた。

その予言とはp.60「群衆の精神に、思想や精神をしみこませる場合、指導者たちの用いる方法は、主として次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反覆と感染である」。

20世紀になって出現したナチズムとヒトラー。

第一次大戦後の疲弊したドイツ。そこで展開されていたワイマール体制の実効なく議論だけの政治と混乱。ヒトラーはそれに乗じて「単純化され、分かりやすい」言説と強引な行動で独裁者にのぼりつめた。ル・ボンの予言通り「断言と反覆と感染」の手段によってである。

ドイツ国民は「群衆心理」に操られていたとしか言いようがない。

あの「合理的精神」を有すると思われていたドイツ国民が!である。

ル・ボンは断言した。「群衆心理は黴菌(バイキン)のように作用する」と……。

群衆心理に駆られた、考えられないような大衆行動。決して過去の出来事だけではない。

我々の脳裡に鮮明なのは21年1月に起きたアメリカ連邦議会議事堂襲撃事件である。

トランプが発する「フェイクニュース」に刺激され暗示を真に受けて(その事自体が信じられないのだけれど)猛獣化した乱徒が侵入、死傷者まで出る不祥事が発生したのだ。

そのトランプは次期大統領に返り咲くかも知れない。

前回「1961」で書いたあの善良な米国人が一部とはいえそうした国民となってしまったのだ!

近代化によって本来は「より合理的」に整備されていくべき現代社会が、SNSの普及も相まって(情報システムの発展はより合理的な世界を構築すべきであるのに逆行して)、フェイクニュースやネット炎上など、いわれなき不合理の時代に突入し始めている。

p.11「まさに来たらんとする時代は群衆(心理)の時代」なのである。


「100分で名著」での講師は武田砂鉄。21、22年と異例の再放送がなされている。

確かに武田と司会の伊集院光・安部(女性)アナとのやり取りが秀逸。伊集院の「小学校に迷い込んだ犬を校庭で遊んでいた子供達が追いかけ回すのが「群衆心理」の始まり」の例示は正しくその通り。

群衆心理は往々にして「魔女」という犠牲者を産む。

「群衆心理」に視聴者が思い当たることが多く、関心が深いから再放送されるのである。

日本についてはコロナ「自粛要請」の些細な違反をとがめる「私的警察」や、ネット上の「論破傾向」などが出てくる。ここでは施政者側の例として小泉元首相と小池都知事の場合を見てみよう。

小泉元首相についてはP58「強固な意思を具えインパクトの強いドグマを声高に語る人間に大衆は引き寄せられていく。「劇場型政治」と称されたワンフレーズ・ポリティクスはその典型でしょう」。小池都知事については「小池都知事が2016年に発した「七つのゼロ」という公約について都民はどれくらい覚えているでしょうか。「待機児童、介護離職、残業、都道電柱……」など「七つのゼロ」のうち、達成できたのは「ペット殺処分ゼロ」だけ。でも都知事の責任を問うほどの議論にはなりません」として、「ポピュリズム」の言葉は出てこないけれど、そうした連想を呼ぶような記述となっている。僕の連想では「群衆心理」と「ポピュリズム」には強い相関々係があるように思えてならない。

これらの例は第三回目の放送「操られる群衆心理」で語られている。「断言が群衆を魅了する」「反復すれば嘘も本当になる(ヒトラー政権の宣伝相・ゲッベルスの例)」「幻想に感染する群衆」といった項目である。ただし一つだけ付言すれば小泉元首相は「郵政改革」の実績を残したし財政も若干ながら改善させた。小池都知事の「純正ポピュリズム」とは一線を画すと僕は思う。


さて、最終・第四回目は「群衆心理の暴走は止められるか」である。

ル・ボンは一転「群衆には「徳性」がある」という。

P77「群衆は事情次第で、単独の個人より優れることも、また劣ることもある。すべては群衆に対する暗示の仕方如何にかかっている。確かに群衆はしばしば犯罪的である。しかし、またしばしば英雄的でもあるのだ……群衆は、巧みに暗示を与えられると英雄的精神、献身的精神をも発揮することができるのである。……光栄とか名誉とか宗教とか祖国とかに対する感情にうったえれば、群衆は時に非常に高度の徳性を発揮し犠牲的な無私無欲の行為を行ないうる」。

この立派な文章で僕は現下ウクライナのような救国的活動を想像した。でもル・ボンが挙げた具体例は1848年二月革命でテュイルリー宮に乱入した群衆が装飾品を何一つ盗まなかったことだった。

日本人だったら当たり前のこと。「その程度か」とややガッカリした。

武田講師は「連帯」の意義を説く。現代において大変意義のあることだ。

我々は災害時の救済や復旧活動などで多くの人々の「連帯」の姿を見てきた。

その背後には常に群衆(というより一般人の集団)の「徳性」を見る。

宗教的な組織での結束力が弱い日本では「連帯」こそがそれに代わる主柱なのだろう。

とはいえマイナス面が多い「群衆心理」。

やはりひとり一人が、より冷静に、理知的に、合理的に物事をとらえていくことが大事。

そうした人間がより多く育つような広い意味の「教育・育成」をしていくのが基本であろう。

それなくしては「風評被害」等は根絶しない。

僕はこれに「歴史認識」という項目を付け加えたい。

特にヒトラーのドイツに次ぐような「歴史的過誤」を犯した国民としては余計にそうだろう。


最後に「群衆心理」に似た現象=「風評」について付け加えたい。

風評について最近こんなことがあった。

①福島の原子炉処理水の海上投棄についての風評被害。

当初は国内の風評被害に対処しての補償的措置が想定されていた。しかし投棄後に風評被害が大きく報道されたことはないようだ。きっと中国の政治的理由での理不尽な輸入禁止措置に日本人が反発しての皮肉的効果なのだろう。つまり国内の「姿なき風評者」は中国の指導者と同等の非理性に陥っていたのに気付いたのである。処理水を理由に福島の水産物を忌避するならば北京の彼等と同じ愚かさを露呈させることになる。

②正月の能登震災では、少し離れた地域の金沢や新潟の旅館等の観光業にも多くの「ドタキャン」が殺到し、多額の損失を発生させたとの報道がなされた。能登半島だけが主体の地震の発生状況から「いわれなき理由」による風評的被害といえる。ここではドタキャンした人間が特定できる。彼等はまことに残念な行動をしたものだ。本来は同情と共に当初の北陸プランを実行すべきであろう。満杯の正月休暇予約の中でドタキャンされた側の落胆に思いを馳せる度量がないのだろうか。しかもその内の何割かが復興支援の特典措置を利用してその後の北陸旅行をしたとしたら何とも割りきれない。いわれなき理由で損失を生じさせ公的費用を利用して復興支援に参加するという、何とも矛盾した動機と行動である。


本書は22年に買ってあった本。ふと思い出してTV視聴と共に読んでみました。

再放送するくらいに関心を呼ぶ講座であることは理解できるし実際に興味深い内容です。

しかし同時に「群衆心理」が犯してきた多くの悲劇を想像すると複雑な気持ちになります。

100ページにも満たない薄いテキストですが、その意味するところは実に深いのです。

そんな読後感でした。