本牧徒然雑記。「2月暦絵」・「英語教育論争史」そして高校時代自分史。

江戸川春雄「英語教育論争史」(講談社選書メチエ)から抜き書きしてみる。

英語教育をいつからどのような方法で教育すべきかは、明治初期から延々と続き結論の出ないテーマである。それは2つの考え方による論争の歴史でもある。

A論; 児童は模倣・記憶能力が高いから早期英語教育が必要。

B論; 思考力が備わった年齢から始めるべき。国語力もない子供に教えたって無駄。

そしてA論が「ナチュラル・メソッド」(a)に、B論が「訳文と文法重視」(b)の教育方法に結びついていく。重大な制約はA-aを採用したくたって特に戦前は教える人材がいない。どうしたって中等教育からのB-b方式になっていく。そして長年の英語教育の成果が何も残らない例えば僕のような日本人が多数形成されてきたのだ。かくて、このブログでの英語表記はスペリングを間違ったら恥ずかしいし、かといって辞書で確認するのも面倒なので全てカタカナ表記となる。

本書から戦前の代表的論議を転記してみる。

「今日の英語研究者の傾向如何というに高尚なシェークスピーヤ、ミルトン、ドライデン、テニスン、エマーソン、カーライルの詩文を研究して、その文章の巧拙を云々する所だけは如何にも立派な英語学者らしく思わるれども、葉書一本すらろくろく英語にして考え得ず、新聞紙の一欄すら満足に解釈し得ず、外人より二三語を話さるればたちまち辟易するもの滔々として皆これなり」(1905年「実業の日本」)。

一方「自然式または直接式なるものは嬰児教育法を取て直ちに少年教育法に転用し母語教習法を以て直ちに外国語教育法と為したる背心理学的学習法にして取るに足らず」(1903年「最新英語教育法」)。

これらが今から120年前の、そして今に続く論争なのである。

最近は入試方法などに試行錯誤が続くとはいえ、グッとA-a傾向に近づいてきている。大変結構なことだ。しかし国際機関で働けるような人材となると、やはり日本語での高等教育とか本人の全般的知的水準が重要になるのは当然のことだ。「内容」と「表現力」両方備えていれば万全だろうが、a・b教育どちらが良いかは結局ケース・バイ・ケースなのだろう。

とはいえ、ウクライナ難民の多くが英語でインタビューに応じる姿を見ると、やはり日本の一般人への英語教育の欠陥を見せつけられるような気がする。

きっと「教育」のみならず「英会話の必要性」の切迫状況の複合した問題なのだ。


画像の「NEW JACK and BETTY」は中学時代の教科書でした。

中学ではフルブライト交換留学生の若い女性・ホイットマン先生による幼稚園児へ話しかけるような週1回の英会話授業がありましたが、それで会話が身に付く訳がありません。

むしろ山梨・勝沼への遠足等で若い米国人の清新の意気に接した記憶の方が残ります。

56年高校入学。英語は当然「訳文と文法」方式。本書でいうところの「斎藤秀三郎によって大成され、弟子の山崎貞によって爆発的に普及した学習方法」(それは「受験英語」でもあった)です。共に初版は明治・大正。それが戦後昭和30年代の教材になっているのだから実に驚くべきことです。山崎の「新々英文解釈研究(通称・ヤマテイの新々)」は1990年代まで使われたそうです。文字通り「100年のベストセラー」。ギネス記録並みの奇跡が日本の英語教育で生きていたのです。

入学後初めて神田に辞書や参考書を買いに行った日を思い出します。東横線渋谷から延々都心に向かう都電。青山通りや日比谷。都心の風景に車窓に張りついて興奮しました。何故JR(国電)を使わずこのルートにしたのか?きっと「東京」を知りたい高校生の好奇心だったのでしょう。

入学早々の2つの英単語の記憶も鮮明です。

「イクストローディナリー」。これが「extra」と「ordinary」の合成語だと気づかず不思議なスペリングだなと思いながら丸暗記したことがひとつ。もうひとつは「self-realization」。僕は予習で「自己理解・認識」と訳しました。それで文意が通るのです。でも教師の訳は「自己実現」。ちょっと質問してみましたが、その頃の僕はまだ「自己実現」という日本語を知らなかったのです。「自己」という無形が例えば「学生としての自己」「家庭人としての自己」として「実現」していくのだとの教師の説明に納得しました。確かに「無形概念」から立場に応じての「有形の現実の姿」に実現していくのが人生というものでしょう。だから「語学」は単なるテクニックではないことを知り始めたのです。後に知った「シニフィアン・意味するもの」と「シニフィエ・意味されるもの」にも通ずる概念です。

15歳の春・当時の都立高校生の多くがこうした思春期を送っていたのです。


英語の教師はクラス担任でもあった「勢山秀子」先生。40歳位・自分の母親と同年代。優秀な津田塾大出身で都立高校界でも有名だったと思います。女性教師は他にはダンス等の女生徒体育を教える一人だけ。旧制都立八中でしたからクラス50人のうち女生徒は10名くらい。ほぼ「男性社会」です。

僕は文系コースを選んだので副教材はオーウェル、ハーディー、ナサニエル・ホーソン等、今考えると大学英文科初級程度の教材でした(21年4月ブログ「ジョージ・オーウェル」で触れたことあり)。授業ではページ毎に「質問は?」と尋ねられ、質問が尽きると席順指名で和訳は勿論、「この部分を他の英語で言い換えよ」とか「間接話法を直接話法で」とか「何を言いたいのか簡潔に述べよ」など矢継ぎ早やに質問が飛んできてモタモタしてたら「はい、次」と進んでいきます。予習範囲に迫ってくるのでヒヤヒヤしながら授業終了ベルを待つ心境です。正しく答えられなくて「皆の前で恥をかく」のが男としては最もつらい年頃なのです。昨年の「12月暦絵」で書いた通り、理科コースの数学では普通の解答以外にもっと「エレガントな」別解法を求められたり、とにかく一筋縄ではない授業風景が都立の進学校では普通だったのではないでしょうか。それが後に昭和40年代中期の「学校群制度」でメチヤメチャにされました。

勢山先生の場合は新入生徒の低水準に失望して玉川学園大学教授に転身されました。

中学・高校だけで6年間、膨大な単語を覚え、文法を勉強し、暗号解読のような苦労で英文を訳し、長文の速読訓練もしました。英語に限らず全科目徹夜に近い時間まで受験勉強も頑張った積もりです。

でもそれは「積もり」だけだったのかも知れません。

英語に限れば現にテレビでは聞き取れないし英会話となると言葉が出てこない惨状です。

「武蔵小山」なのに喫茶店に入ったこともなく、かといって必死で「本当の受験勉強」に打ち込んだこともなく、学生服の襟元フックはキッチリ掛け、丸刈り・学帽のまともな優等生振りですが、本当の「自己実現」は中途半端。これが現在にも至る「自分」なのかも知れません。


息抜きは選択科目。音楽は志望者が多くジャンケンで負けて「習字」。老講師の失業救済みたいな時間で彼も心得ていて何も言わない。習字は超・真面目なT君に任せて、教室から抜け出して校庭でソフトボールに興じたり、3階の教室の下がプールなので夏期の女生徒の水泳授業の時は窓から鈴なりで見下ろしたり。最後に提出する習字を手にして教師は「なんだみんな同じような字ではないか」。T君1人だけの字だから当たり前。師弟共演の芝居です。次年次からは進んで習字を選びました。

中間試験最終日の午後は権之助坂の映画館(目黒スカラ座?)や東横線・白楽の「白鳥座」での映画が楽しみ。週日昼間でちょっとやましい気持ちもあるけれど館内で同級生に出会ってホッとしたり…。

ヒチコックの「裏窓」など新鮮な驚きを感じたものです。

運動会では男子全員参加の校外走。目黒通りを走って碑文谷警察署で折り返し、校庭には50位までの走者を入れて以下は進行時間の関係で校門で走行終了。ある年に丁度50位になって校庭一周。するとオリンピック最終ランナーの如くに満場「頑張れ」の拍手。「ラストではない。後ろには何百人以上いるんだよ!」と叫びたいような気持ちでゴールインしました。真面目に走らない生徒も多かったのです。

それにしても一校の運動会で目黒通りルートが許可されるのだから隔世の感を強くします。

サッカー、野球、柔道等の部活動もあったけれど無関心派が圧倒的。体育教師は内心馬鹿にされていました。愚かな尊大気風だけれど、まあこれも今とは違う高校生だったのです。


本書を読んでいる時、2つの新聞記事が目に止まりました。

①認知学者・大津由紀雄氏・「幼少からの英語熱は「異常な状態」。母語をコントロールできるようになってからでも決して遅くない」。相変わらず「論争」が続いているのです。

②字幕翻訳第一人者の戸田奈津子氏・「字幕翻訳の原点は「第三の男」を50回は観たことです」。津田塾大出身なのでさぞや英語ペラペラかと思いきや、「英語をしゃべる機会は本当に少なかったです。1クラスに学生が50人位、一年に何度か指されて「イエス  マム」」と言うぐらいのものでした」だったそうです。映画関係の会社に入り、英語堪能だろうと思われて通訳を命じられ否応なく身に付けてきたのであり、そこでは彼女の人柄が相手に好感を持って受け取られたことが大きかったようです。

そして字幕翻訳を目指してからは「繰り返し」の特訓だったとの談話です。

結局は必要性と基本的能力と人間性、そしてたゆまぬ工夫と努力なのでしょう。

これは英語に限らず何事にも共通している事柄で、よく分かっているはずなのにそれを脇に置いてナンタラ・カンタラ言い訳している態度は論外なのでしょう。おおいに反省せざるを得ません。

しかし「英語鎖国」の我が家にも「開国」の兆しが見え出しました。

息子の妻が子育てをしながら筑波大学博士課程に学び言語学博士(英語教育学)。ある大学の准教授職に就いていることです。在学中「大変」を口にしなかったのでその点にも感心します。

5人の孫の今後でも何らかの形で英語が関係する世界に生きる場合があるかも知れません。

既に兄の子供・孫は英・豪・米の英語圏に永住しています。

こうした変化に様々な意味で「時代は変わった」ことを実感します。

自分史・高校時代次回は「4月暦絵」で終了予定です。

サクラもすぐに咲き出すことでしょう。