本牧読書日記。吉村武彦・他編「国風文化」・貴族社会のなかの「唐」と「和」(岩波書店)。

「国風文化」とは10~11世紀頃の平安貴族文化において際立っていた特徴を指す。

代表例が西暦1000年前後に書かれた「源氏物語」「枕草子」等の仮名文学である。

しかし国風の背景には理想化された中国文化としての「唐」のイメージが存在していた。

国風文化の成立には三つの要因があったという。①唐との外交関係がなくなったこと、②ひらがなが発達したこと、③藤原氏が繁栄したこと、である。

この傾向は文学のみならず美術、信仰(仏教)、貴族生活全般の「和・倭・日本」化に及んだ。

よく言及される894年「遣唐使の中断・廃止」だけが原因ではない。

政治・経済制度の「律令制」が日本的に熟成・吸収されてきて、土地の私有化、貴族・寺社の大土地所有が本格化した。それと歩を合わせるが如くに文化と意識全般の「和」化が円熟していったのだ。

唐は既に907年に滅亡しており、中国は十国・五代の分裂時代を経て北宋(960~1126年)の治世となっていた。北宋との往来は皆無ではないが、大陸での仏教の衰退もあり、むしろ「日本の方が上。彼の地から学ぶものは最早ない」との機運さえ唐滅亡直後から生まれてきていた。

「和・やまと・倭」の特別な感情が植えつけられていったのである。

唐は過去のモデルでありかつての先進文化だつた。概念・イメージとして敬われることはあっても事実上の規範ではない。公・官・男性社会では重要な尊重されるべき優位文化であるが、仮名文学・私的生活・女性社会においては「和」の文化が中心となっていった。和歌などでは男性もその世界に浸った。

本書は岩波「古代史をひらく」シリーズの一冊である。

「概論」に始まり「国風文化の構造」「東アジアの文化再編」「国風文化期の美術、王朝物語、漢詩文」と詳細に渡って記述されている。


「国風文化」については明治以降の日本史学界でも変遷がある。

岡倉天心による「遣唐使廃止が起因」説が長く主流であった。しかし学術語としての「国風文化」は明治期からあった訳ではない。その語が学校で教えられ一般化していったのは「国民国家・日本」の形成プロセスの中でなされたことなのである。頂点となったのは当然ながら開戦前から戦時にかけてであった。そして敗戦。「国風文化」思想は一転して批判・攻撃の対象となった。しかし適当な概念語としての他語がなく、結局はややナショナリスティックな響きのあるこの名称が継続使用されてきている。

ただその中身は違ってきた。大きな違いは「本当に北宋からの影響はなかったのか?」「余りに「国風」に固執し過ぎではないのか?」との疑問が根強く存在し、特に90年代に強力な学界主張として現れてきたことである。注目されたのは「中国海商」の役割である。海商のお陰で中国文物の輸入量が増え「唐物(からもの)」として珍重された。中国が持つ魅力から文化面でも漢籍が広まり、その刺激を受けて仮名文学も発展したとの学説である。つまり中国文物は平安貴族の美意識にも影響を及ぼし国風文化が成立したという説。「唐」と「和」はいわば「ウイン・ウインの共存関係」説が現在の主流になっているらしい。本書でもその立場が基調となっている。前述の通り「唐」は公・ハレ・男性性、「和」は私・ケ・女性性と結びつき、そうした二面の文化コードが機能したとの考え方に落ち着いてきている、ということのようだ。

ただし異論、例えば「唐物」はそれ程の影響を及ぼしてはいないとか、美術、仏教ではまた違った面もあるといった諸説が盛んに出ているようである。いずれにせよ、初めて聞く話ばかりで基礎知識のない僕には「ただ読んだだけ」の部分も多かった。

岩波のこのシリーズでは「渡来系移住民」(22年6月ブログ)を読んだことがある。

2~3世紀、大陸(朝鮮)からの渡来人がもたらした先進技術、それは従来の「いろり」に加えての「かまど」の普及であり、馬の飼育や金属製の農具、武器等の使用である。当時の人口構成上でも渡来人が想像以上に大きな役割を果たしていたことがはっきりとわかった。

日本古代史はもはや通読する気力もないので、ポイント、ポイントで読んだこの2冊は日本人の生活と文化のルーツ認識として貴重な読書であった。


ここからは徒然雑記に移ります。

先日のTV「ブラタモリ・鎌倉」で中世・北条氏時代の大陸との関係が出てきました。

ひとつは「建長寺」。開山者は中国から渡来の「蘭渓道隆」。お堂に入るのも靴を履いたままの全て中国式です。それは「国風文化」の平安・京都ではなく武家社会の鎌倉だから可能だったのでしょう。

もうひとつは「極楽寺」。こちらは壮大な計画(仏教諸派のみならず神道や山岳信仰も含んだ日本の総宗教ミニチュア版)を構想した寺院だったとのこと。こうした新しい着想も旧世界ではなく新世界でこそ可能であると改めて気付かされました。この着想は蒙古襲来という未曾有の国家的危機感・大陸との国際関係の中で構想されたらしいです。丁度本書を読み始めた時だったので興味深く見ました。

現代日本でも、我々旧世代では思いもよらない様々な現象が新世代による文化として定着してきています。その多くは僕の好みではないけれど、そんなことは関係なく否応なしに歴史や社会は変換していくのですね。こんなことをつくづくと感じることが多くなってきています。

だいたい大嫌いだったタモリがNHKのレギュラー番組で語るこの物語に僕は感心するファンになっているのです。彼も僕も歳を重ねて変わってきているのでしょう。

最近は読書時間を上回ってTV番組や録画の消化時間が多くなってきています。

画像から得る知識・情報は時として読書以上に大きなものがあります。楽しさも深い。

従来の「ヒューマニエンス」「新日本風土記」「プレミアムカフェ」や「地球の歴史や人間の進化」に関する番組の他、先日の空撮番組では例えば中国の「大運河」。苛酷な政策で人民の恨みを買い悲惨な最期を遂げた隋の煬帝と彼が遺した偉大な事業。「暴政の皮肉」=歴史のひとコマを見ました。

先週ヴェニスのカーニバル番組も楽しかった。「街歩き」の再放送でさえ街によっては楽しめます。「カールさんの古民家再生」は同年代の彼の活動に感心してしまいます。

「徹子の部屋」はゲストが昔の俳優・歌手の時は見ます。昔の学生の「恋人」は吉永小百合が一番でしたが、僕は年上だけれど機知があって明るい気分をもたらしてくれる黒柳徹子や横山道代が好きでした。まさか今の歳の「TV界のドン・徹子」を見るとは思ってもいませんでした。

本を読むのもTVを見るのも視力の衰えが心配ですが、逆に視力が大丈夫な内にこれらの楽しみをできるだけ吸収していきたいのです。それが駄目になったら音楽を聴くことに専念すればよい。

今週末は根岸森林公園の梅見の予定です。

確定申告も面倒ですが……。