本牧読書日記。フレデリック・トラウトマン「ペリーとともに」・画家ハイネがみた幕末と日本人(三一書房)。

 ペリー艦隊にはペリー直属・6名のマスターズ・メイトがいた。その中には士官養成枠を転用して採用された銀塩写真師や画家が含まれていた。19世紀の欧米では画像を利用しての官・民への記録・報告や広報活動が始まっていた。言わば戦場画家である。その名はドイツ人ウィリアム・ハイネ。

本書は彼の回顧録を素材にテンプル大学名誉教授の著者が書いた「ハイネがみた日本」。

本書には表紙(画像)の「日米和親条約」締結(1854年3月)を始め、当時の日本民俗・風景を描いたハイネの絵画が数多く挿入されている。

モリソン号事件(37年)等で示された鎖国日本の頑迷政策を打破すべく、武力衝突をも覚悟して並々ならぬ意志のもとに計画された国家プロジェクト・特命全権公使ペリーの日本派遣。当時のアメリカは英仏に追いつけ追い越せの意気盛んな新興国。ペリー艦隊は大きな期待を背負っていた。

食料・飲料水積載地バージニア・ノーフォークでは帆走艦から蒸気力の気走艦への転換建造ラッシュの活気がみなぎっていた。気走船はまだ外輪式。スクリュー式は遠征に加わる予定だった「プリンストン」で採用されたが技術未熟で失敗、同艦は参加できなかった。艦隊は気走船「サスケハナ」と「ミシシッピ」、両艦に曳航された帆走船「サラトガ」「プリマス」の計4艦。66門の艦砲と977名の乗組員。

喜望峰回りの長い航海。厳格なペリーのもと訓練に明け暮れる隊員の意気と秩序は見事に保たれていた。現在の米国や日本では見られない気風。米国も明治期の日本と同じく「坂の上の雲」を目指していたのだ。ハイネの回顧録は終始ペリーへの敬慕の筆で占められている。

52年9月出航。マデイラ諸島、ケープタウン、モーリシャス、セイロン、シンガポール、53年4月香港着。そして先ず琉球に向かう。琉球の対応は好意に満ちたものだった。王朝や高官の公的会見や領内を護衛付きで自由に探索、島民の暖かい態度と、申し分なかった。後に再度立ち寄った際も同様であった。

次に小笠原群島(ボニン・アイランズ)に向かう。そこでハイネ達は狩猟などをおおいに楽しんだ。住民はごく僅かの数である。余程思い出に残るらしく琉球・小笠原には多くのページが当てられている。


いよいよ江戸湾・浦賀となる。

各艦が舷側を陸地の砲台に向けいつでも一斉砲撃できる隊形。驚き騒ぐ民衆。小舟で乗り付け退去を命ずる役人。訪問趣旨を述べるペリー側。江戸へのお伺い。待機中カッターでの水深測量。そして7月14日久里浜への初上陸、信任状と大統領からの国書手渡しと、これらはよく知られた経過である。

ペリーは来年の再訪を告げてあっさりと、しかし圧力を残して引き上げた。

幕府が決意するまで長期間を要することを知り抜いていたからである。

香港での待機の間、隊は本国からの追加艦を迎えて更に大規模な再編成を完成させた。マカオ等へも巡航している。そして英・仏・露の対日の動きが激しくなってきたため、予定よりも早く年が明けてすぐに香港を出航し琉球に向かった。外輪気走艦は「サスケハナ(旗艦)」「ポーハタン」「ミシシッピ」の2000~2500t級艦、帆走スループ「マセドニアン」「サラトガ」「プリマス」「バンダリア」帆走補給艦「サプライ」「サザンプトン」「レキシントン」計10艦。砲130門、総員2600名の堂々の編成。艦上は喧騒に満ちている。献上品の山である。機械類・農機具・印刷機・高圧ポンプ・草刈機・脱穀機・機織り・綿布巻き取り機・野外炉、そして短い線路と小機関車・炭水車・客車の鉄道模型。まるで米国工業展である。

2月11日江戸湾南の島々が見えだした。秀麗・富士は回顧録でも度々登場する。

幕府役人との交渉は埒が明かず艦隊員は飽き飽きしていた。業を煮やして水深測量を始め神奈川沖から江戸が遠望できる場所まで進入、一大物議を醸し出す。役人達は予想以上に多くを知っていた。「誰でもカルフォルニア迄行って金を採掘出来るのは本当か?」等の質問攻めである。

交渉が進展したのは他国に先を越されないようペリーの巌とした態度(例えば「浦賀へ戻るべし」を突っぱねた)に依るとハイネは記している。

遂に3月8日(正式調印は31日)いよいよ和親条約(神奈川条約)締結である。p.186「午前10時ポーハタンから信号が上がりすべてのボートが集結を始めた。大勢のボートが艦隊の200m程手前に集合した」以下600名が上陸し観閲式・防御態勢、礼砲、ペリー応接所へ、日本全権委員への礼砲……と続く。会議場外の待機者には軽食(ウナギ汁、和菓子、日本酒が美味)、馴染みの役人との祝杯・タバコを一緒に楽しむ。「色彩に富んだ彼らの着衣が周辺の情景をいっそう豊かにした」とある。鉄道模型が大反響を呼んだこと等の記述が続くがいずれにしてもその後の尊皇攘夷・外国人殺傷が想像できない友好の場であった。


調印後、開港地・下田が指示されハイネ達もそこに滞在。下田の役人や住民、範囲が限定されていたとはいえ庶民との接触の数々が述べられている。一貫しているのは琉球と同様日本人側の好奇心から始まる。そして友好的態度と律儀さである。小さな協力だったら謝礼を断る。物品対価も正当な額以上は要求しない。幕末の日本家屋を想像する我々には整然・清潔な日本を絶賛する来日外国人の印象を不思議に思っていたが、考えてみたら彼等が経由してきた東南アジア・中国で慣らされた目には実に例外的な「アジア」だったのだろう。綺麗な街並みであり正直そのものの庶民だったのだろう。

かたくなに見えた役人も接触を重ねる毎に理解できるようになる。向上心に富み僅かながら言葉も覚えて意志が疎通するに連れて短期間に信頼が増していく。それはハイネ自身が多忙の毎日で疲労困憊でも数多くの写生と絵画を寝る間も惜しんで短時間に仕上げていく真面目さ・勤勉性を、日本人の眼から見て共通の価値観の下に評価できるからであろう。似た者同士の共感である。

ハイネ達は開港地・箱(函)館へも出向いている。そして礼讃の記述は他地と同様である。

6月27日ペリー一行は下田を後にした。ハイネは別れに当たって最も親しくなった役人ゴハラ・イサブラ(合原猪三郎)にプレゼントのシュトライトの地図帳と共に交わした詩を載せている。「友よ、君の目がこの地図帳のページを追い  地球全体を一目で見渡したところで  君の思いは広い大洋を越え広大な地球の彼方にいる人々のもとへと及ぶ……」。合原は形のよい煙草パイプと揃いの煙草入れ、芸術的な茶筒と共に「……舌で感じる日本茶の味は君の心を気高くし心は安らぎの気持ちで満たされるだろう。元気を回復させるこの緑の葉、それを感じた時どうぞ私のことを思い出して下さい。ごきげんよう、さらば」。

まことに人の真心に東西の差はない。因みに合原は大目付に異例の昇進を遂げたが明治新政府への出仕を断り39歳で引退、1901年に没したという。一方ハイネは語学力・筆記能力・芸術家としての才能を認められパリやリバプールの公使館に勤務した。その前の日本からの帰国直後にはなんと南北戦争で北軍准将として従軍している。当然志願であろう。そうした「意気の人」であることは本書からヒシヒシと伝わる。しかし米国に帰化して20年、妻他界・娘独立で彼は30年前に離れた故郷・ドレスデンに戻り回顧録や絵画講師、僅かな年金で細々と生活したとある。享年58歳。

気概と節操、合原とハイネには何故かあい通ずる出会いだったのだろう。「神の手」か。

こうした個人史にもしみじみとした感慨を催す。

ペリーには自身の「日本遠征記」があるが読みにくい本らしい。正月閉館直前の図書館で何気なく書棚から手にした本書はそれに代わる何かの縁であり、僕には良書であった。


その後下田はハリスの時代となる。

再三の江戸公館設置の要請にも逃げ回る幕府。ハリスは強引に江戸に乗り込み、各国も横浜と共に品川周辺に活動の中心を移す。様々なトラブルが発生する。しかし争乱の60年代でも変装して密かに吉原に遊ぶ外国人も現れる。当然手引きする日本人がいるはずである。プライベートの人間臭い場面は古今東西どこでも同じ。遂に幕府も黙認せざるを得なくなる。この時代の話は「幕末江戸と外国人」(ブログ23年1月)で知った。

次の「本牧徒然雑記」に話を続けます。