本牧読書日記。ジョセフ・ヘンリック「文化がヒトを進化させた」・人類の繁栄と<文化―遺伝子革命>(白揚社)。

最近これほど手こずった本はない。それは古典的な「哲学書」と同類の難解さではない。書いてあることの一つひとつは理解できる。しかし一応「人類学」の範疇とはいえ、述べられている事柄が広範囲で、エネルギッシュかつ該博な著者のヒラメキ的な筆で次々と書きたてられるので、追っていく内に迷宮に入ったみたいに自分の位置が分からなくなってしまうのである。

著者はハーバード大学人類進化生物学教授・兼ブリティッシュコロンビア大学心理学部教授および経済学部教授。こんなに異なる諸分野の研究者でいられること自体が驚きである。米国の第一線教授の考えられないような多能者にはこうした人がいるのだろう。


「文化がヒトを進化させた」。人類が生き抜くために得た知恵を端緒とする「文化」がヒトを進化させてきたことは確かなことである。

人類の祖先は700万年前に現れ、地球の寒冷化に伴って縮小する熱帯雨林から徐々に草原に出ざるを得なくなった元々が「弱者」であった。しかし直立二足歩行で自由になった手で食物を採集・運搬し、仲間とのグループで身を守る生活態を獲得した。肉食動物に「狩られる」存在だったが50万年前には粗末なヤリで狩猟を始め、道具や火の使用、お互いの身を守るための社会力、互いの社会関係を熟知して即座に気持ちを理解し合う共感力によって鍛えられた。共同の食事や子育て、コミュニケーション(7~10万年前に言葉が登場)と、その他の多くの「文化」として括ることができる事柄が、人間を勝者とする最大の原動力となってきたことに異論はないのである。

肉体的にも脳の増強・増大や二足歩行に伴う体型の変化、火の使用による食物の柔らかさ・食べ易さに伴う咀嚼器官の軽小化・腸の短縮、互いのコミュニケーションの為の発声機能の発達(後の言語使用に発展)等々多くの例が知られている。これらは「広い意味での「文化」」が遺伝子に組み込まれた「遺伝子革命(本書サブタイトル)」の例である。本書にある面白い2例を引用してみよう。


①「青い瞳の人がいるのはなぜか」。

アフリカから発した人類の皮膚の色は濃く瞳の色も濃茶色である。赤道帯の強い日光直射(紫外線)に対応しているからである。しかし北半球高緯度に移住するにつれて皮膚は白くなり瞳は青色となっていく。弱い日光に対応してなるべく太陽光を取り入れようとするからである。

北欧人の瞳は青い。しかしイヌイット等の肌や瞳の色は我々日本人と同様である。何故か?それは両者の食事文化の違いによる。イヌイット等の狩猟・採集民は魚・海洋動物を食することによりビタミンDを取り入れている。一方バルト海沿岸地域は先史時代の初期農耕がめざましい発展を遂げた数少ない土地であった。6000年ほど前から農作物主体の食事となりビタミンDが欠乏、太陽光をより多く取り入れてクル病などを防止すべく白い肌の遺伝子を持つ個体が自然選択により有利になった。皮膚メラミンの減少に伴い瞳の虹彩のメラミンも少なくなって青色となったのである。

②「米の酒とADH1B遺伝子」。

変異型のADH1B遺伝子を持つ人は「酒に弱い人」。アルコール分解速度が早くどんどんアセトアルデヒドが作られて吐き気等の不快感が増し二日酔いにもなる。この身体反応は過度の飲酒を防いでくれていることにもなる。日本人を含む東南アジア系の人種はこの遺伝子を有する人が70~90%に及ぶ。一方、中近東では30~40%である。これは稲作などの開始時期、即ち狩猟採集から農耕生活に移行した時期が早い地域ほど、酒の醸造が発達しそれに伴う問題の発生も深刻であり、その為に飲酒に歯止めをかける遺伝子の自然選択が作用した結果と考えられる。

逆にミルクについては離乳期を過ぎるとラクターゼ(乳糖分解酵素)の分泌が減り、乳を飲むと下痢・腹痛の症状が出る人がいる(乳糖不耐症)。しかしヨーロッパ・アフリカ・中東では乳糖耐性が高く症状の出ない人が圧倒的に多い。これも食事文化の遺伝子への反映と考えられる。

以上ごく一部の例を挙げてみた。その他に数多くの説明が続いている。

では我々人間の「文化」は遺伝子に「革命」を起こし、永年の進化や歴史の中で我々の遺伝子に組み込まれてきたのだろうか?でも、そうともいえないようだ。むしろ組み込まれていない方がずっと多いように思われる。特に文化が高度化されればされるほど遺伝子以外の要因、人間が社会を構成し代々に伝え発展させてきた「文化」や次に出てくる言葉「集団脳」によって現在に至る「進化」が遂げられてきたと考える方が妥当である。著者も基本的にはその見方に立脚している。その立脚点の上で遺伝子面からの新たな視点を投げかけたのが本書著作の意義であると言えるだろう。

次に「集団脳」について書いてみる。


人の文化が遺伝子に組み込まれているとすると特に「火をおこすこと」「最も簡単な道具を考えつくこと」等は、何らかの理由でそれが途絶えた場合は容易に復活できるはずである。

ところが全くそうではない。

例えばタスマニア島の原住民が有する道具類はわずかに数種類に過ぎない。一方海峡を隔てたすぐ近くのオーストラリア原住民のそれは数十種類に及ぶ。両原住民の距離の近さから言ってかつては同水準の道具文化だったのだろう。ところが何らかの理由(小グループに分裂してしまって、熟達者の死とか文化水準が高いグループの滅亡等により伝達がなされなかった等)でタスマニア島では多くの道具作成が途絶えてしまったと考えられる。もしそれらが遺伝子に組み込まれていたら残った人々は必ず復活できたはずだ。

しかしこんな初歩的で簡単な道具の作成すら遺伝子に組み込まれていなかったのである。

現代人だったら火を起こしたり弓矢を作ったりもすぐできるだろう。

でもそれらは親や先生や先輩や本など何らかのルートで「知っている」からであり、全くの裸一貫でこの世に存在していたら不可能である。

本書p490「ヒトは賢そうに見えるし、確かに賢い。けれどそれは生まれつき個々人の脳に備わっている発明の才や創造力によるのではなく、祖先代々受け継がれてきた知識や技術や習慣など、膨大な文化遺産の宝庫から知的アプリケーションをふんだんにダウンロードして利用しているからなのだ」。「もちろん、価値ある文化的情報はこうした知的ツールにとどまらない。長い年月の間に、動植物に関する知識なども含め、その地域での生存や繁殖に有利なありとあらゆる情報が蓄積されて、優れた「集団脳」と呼ぶべきものができあがっていく。そうなると、試行錯誤を繰り返しながら自分で工夫するよりも、すでに適応的なスキルや習慣を身につけている他者を模倣する「社会的学習」のほうが圧倒的に有利な状況が生み出される。そのような状況下でヒトの模倣行動にますます磨きがかけられるとともに、手本にすべき人物つまり成功実績や名声のある人物を敬おうとするプレステージ心理や、それらに伴う社会的地位(ステータス)といったものが生まれ、さらに一連の社会的規範ができあがっていく」。


以上2系統の「進化」のタイプがあることを知った。

A型「遺伝子組み込み型」とB型「集団脳型」。

ただこれがどのように組合わさってきたのか、本書では理論や実験など様々に説明がなされているのであるが、複雑過ぎて僕の頭脳水準では極めて混乱してしまう。

だから読んでいて「自分の位置が分からなくなってしまう」のである。

更にAとBの中間的な「文化的適応」タイプもある。例えば中南米の人々が日本人だったらとても耐えられないようなトウガラシ激辛を「美味しい」と好んで食べる例。これはAなのかBなのか?

また人類と大型の地上性霊長類が分かれた分岐点、即ち本書でいう「人類がルビコン川を渡ったのはいつか?」も大問題。こうした問題の提起と多くの事例と実験データが心理学考察も合わせて弾丸のように次々と飛び出してくるので、思考の整備がとても追いつかない。

こうした経験は初めてではない。多くの類似過去例では途中で諦めて放棄した。

でも今回は「一応は」読み通した。本書には何か読み通させる魅力があったのである。

魅力の第一は僕が関心を持つ「我々(人類)はどこから来てどこへ向かうのか?」がテーマになっていることである。でもそれだけではない。

それを本書p480でみてみよう。将来について触れている。「インターネットの普及によって、人類の集団脳は劇的に拡大する可能性を秘めている。といってもやはり、言語の違いが地球規模の集団脳の出現を阻むだろう。更に情報共有に際してのジレンマもある。社会規範や何らかの制度がないと、ウェブ上から優れた知恵やアイディアをすくい取るばかりで、自分からは他者に何も提供しようとしない利己的な人が得をする状況が生まれてしまう。現在のところは、名声の獲得といったインセンティブが十分に働いているようだが、コストを負担せずに有益な情報を獲得する新戦略が広がるにつれて、こうした状況も変化していくかもしれない。情報共有に関する向社会的な規範を、インターネット上で長期にわたってどの程度まで維持できるかがカギになるだろう」。まさにその通り。「社会的な規範」を作り上げないと「集団脳」は「供給」が細っていくばかりで衰退に向かいかねない。「フェイク」のるつぼとなってしまうかも知れない。既にその兆候はある。この指摘は情報世界の将来を見据えた慧眼である。「向社会的な規範」を作り上げるのも現在の「集団脳」の力であり役割である。「人間文化」は必ずこれを達成するだろう。是非とも期待したい。

本書が単に「人類学の本です」「人間進化の本です」を飛び越えて、もっとマクロな視点を有する意義を持つ本であることが分かる。

だから疲れたけれど、また途中難儀して「松本清張」を2冊並読して気をまぎらわせた2週間であったけれど、快適な知的疲労であったことは断言できるのである。

次回は反動的に「分かりやすい本」にしようと思います。