本牧読書日記。星野博美「世界は五反田から始まった」(ゲンロン叢書)。

去年のいつ頃だったか、朝日新聞書評を見て買ってあった本。

ところが12月末に「大佛次郎賞」受賞のニュースにびっくり。年明けに急いで読んでみた。

1月にこだわったについては理由がある。

一昨年同賞の堀川惠子「暁の宇品」が実に素晴らしい作品で、昨年1月のブログにも書いた。

だからどうしても「暁の宇品」と比較してみたくなる。

69年生まれの堀川、66年生まれの星野と、同世代。

広島、五反田とそれぞれの出身地にこだわっているのも似ている。

しかしノンフィクション分野で調査力抜群で数々の実績もある堀川に比較して、星野は若い頃から中国に関心を持ちICU卒後香港に住み「転がる香港に苔は生えない(大宅壮一ノンフィクション賞)」、祖父物「コンニャク屋漂流記(読売文学賞)」があるものの、家業の金属加工業を手伝う時間も多く、独断印象ながら「アマチュアっぽい」感じがする。加えて読売賞の部門が「随筆・紀行」である如く、ユーモアもまじえた「エセー風」の筆で、そうした傾向は堀川の重厚感とは別の魅力と思った。

堀川がオペラだとすると本書はオペレッタ。しかし「こうもり」「ホフマン物語」とオペレッタには心に残る名作が数多くあるのである。


本書は二つの物語から構成されている。

著者の祖父からの「家族物語」と「大五反田戦災物語」である。

なお「大五反田」とは五反田駅を中心として半径1.5km程の円内。

五反田駅・JRを境として北側の都心に近い白金高輪・品川・目黒地区と南側の戸越・武蔵小山地区とは「風土」が違う。いわば山の手と下町である。本書の舞台は南側が主である。

まず「家族物語」から始める。

「私の出身地、そして現居住地は、東京都品川区の戸越銀座である。祖父の代から1997年まで、私の家族はここで町工場を営んでいた。」(本書「はじめに」)から始まる町工場の小史。

幼い頃可愛がってくれた祖父が自分の死期を予感して綴った「自分史」たった20数枚がきっかけであった。作家となった著者は「生存者がいる内に」と祖父の郷里・外房御宿近辺の親類縁者に聞きとりを開始し、前述の「祖父物」を上梓した。その意味では本書はその「後篇」でもある。

五反田の親族経営小工場での修業を経て祖父が独立したのは、第1次大戦後の日本の近代化脱皮という大きな時代の流れに乗ったものであった。これは、日本の産業史・工業史のみならず、大都市への人口集中、中・下層市民形成の視点からも実に重要な契機であった。東京だけでも五反田のみならず、蒲田や都心下町、あるいは王子・赤羽地区など至るところにそうした地域が出現した。大企業の下請けもあるし、中・小同士のネットワークでの受・発注の活動もある。それぞれ「一国一城の主」なだけに「生き馬の目を抜く」駆け引きも、倒産・廃業もそして「雨後の筍」の起業も日常茶飯事である。

目端のきく祖父のあとを継いだ父親はむしろオットリ型。しかし生まれて以来浸ってきた世界である。それ以外選択がないが如くに家業にいそしむ。著者も配達など発注元や業者と毎日接していく中で強い愛着を持つに至る。思いが「大五反田」を愛する気持ちと共に本書の一行一行からほとばしり出ている。

だから「世界は五反田から始まっている」のである。これは著者だけではない。

この地に生まれ育った人間、縁のある人々は一体何十万人いるだろう。

何の変哲もなき街の典型なのにこれだけ書ききってくれると実に「思い残すことはない」。

実は僕自身がその一人であるから気持ちは同様である(これは「2月暦絵」で書く)。

さて、この家業も遂に終焉の時を迎える。工場を閉鎖して「製造」はやめたが、それから父親は得意先と下請けの仲介業を営んだ。彼にとっては「これで助かる仲間がいる」ことがやり甲斐であった。

そこに僕は実に日本のどこにでもある特色を見出だす。「生産性・収益性」の理屈から言ったら排除すべき仲介業種である。しかし現実に「助かる人がいること」これが日本の産業構造の底辺を支える「エートス」だと思う。プロテスタント産業人の「神からのコーリング」なんかは全く関係ないが、しかしどこからか聞こえてくる使命感みたいなコーリングは、本人達は意識せずとも必ずあるはずだ。

これは、僕が再三書く「良心的出版社」が業として行いながら「利他」を実現している姿に通底するエートスである。それが証拠に父親は永年発注してくれていた主要発注会社・A工務店の廃業と共に自分も完全引退した。彼は結果的には「サヤをとる」存在であるが、依存心や後ろめたさは微塵もない。

「永年の顧客と自分の手配で仕事を得る業者」の「お役にたっている」からこそ自分の存在を尊重している。だからA工務店の廃業と共に自分も引退することで自尊の気持ちを維持している。

自己の生涯を価値あるものとして納得したのだろう。

本書の最後は、著者が廃業後再開発のため空き地となっているかなり広いA工務店跡に佇んで、万感の思いにとらわれるところで終わる。僕も縁のある地区でこうした中小企業の一端も知っているので、同様の思いにとらわれた。そして思った。本書は失礼ながら一風変わった感じの少女が60歳近くの「大人」になり、大佛賞作家にまでなる、ひとつの「成長物語」であることを。そして祖父の小文に触発されて愛する街・大五反田を舞台とする渾身の「自分史・家族史」であることを……。


次に「大五反田戦災物語」に移ろう。

祖父創業の工場は「軍需」で伸びた。軍需による企業発展は戦前日本の機械工業を始めとしてあらゆる産業で言えることである。実は戦後だって「朝鮮特需」は一種の軍需ブームであって、これなくして復興のペースは格段に違っていただろう。

第二次大戦開戦後、僅か半年後の「ミッドウェー海戦」から日米の優位が逆転した。

米国は見抜いていた。京浜工業地帯等の明らかな「軍事産業」を叩くだけでは日本は屈服しないことを。一般家屋に入りまじって毛細血管のように張り巡らされている中小工業のネットワークを殲滅しなければ戦争は終わらないことを。

昭17(42年)4月18日突如としてドーリットル空襲があった。卑怯な真珠湾急襲を決して忘れないとの強い意志表示であったが、必ずしも大工業地帯ではない品川区も爆撃対象地であったことに、既に米軍の意図が伺える。この空襲を目撃して先見性のある祖父は直ちに家族を越ケ谷に疎開させ、自分は単身残り受注に応じきれない程の軍需消化に邁進した。

ドーリットル後2年半、米軍機は東京上空に姿を現さなかった。東京が断続的にしかも頻繁に空襲に晒されるようになったのは昭19年11月24日から終戦までの約9ヶ月間(本書p271)である。

3月10日の大悲劇はよく知られている。5月24日城南空襲(旧品川・荏原・大森3区と目黒・渋谷・芝の一部)は東京空襲の総仕上げの時期であり、祖父の工場も壊滅した。ところが、3月10日の死亡者に比べて、同規模のこの空襲での死者数は極めて少ない。3月の「居残り消火せよ」との同調圧力が既に吹き飛んでおり「我が身大事」の人間の意志が勝って、いち早く避難したからである。まことに人間のしたたかさ、生き残りの本能がいざとなれば何物にも勝る「凄さ」である。僕はこのことを初めて知った。

僕の母校・都立小山台高校が所在する武蔵小山(商店街)の悲劇も初めて知った。

戸越よりは少し「上級でシャレている」として栄えたこの商店街は、戦時政策の中で「不要不急の」商業地として目をつけられ、強制疎開などで営業がたち行かず廃業する住民が続出した。困窮した彼等が団を結成して向かったのが満州開拓地。そして周知の惨劇である。長野県を始めとして集団渡満は地方ばかりと思っていたが東京からもあった。それも「追い込まれての」被害者達だったのである。

さて、敗戦後の城南地区の様々な人間模様。

ドサクサ紛れで他人の土地を不法に掠めとる悪党まで跋扈する世相。

もっともっと圧倒的多数は地道に知恵を働かせて、けなげに生きていく人々の姿である。

著者は区役所の資料や住民証言を丁寧に読みこんで、ここでも幾多の家族像を描いている。

被災家族ではないが、幼児期にその時代をおぼろげながらに知る僕は当時が目に浮かぶ。

遡って戦前の大五反田が全体主義官憲監視の下にあった時代は苛酷な前史である。

治安維持法で迫害された「無産者達」「党生活者(五反田は小林多喜二に縁が深い場所であった)」「荏原無産者託児所関係者達」の歴史も全く知らなかった。

紹介しきれないので「これ以上は本を読んで頂戴」としか言いようがない。

五反田に疎遠な読者もきっと興味を覚える本である。

大佛賞審査委員はこのユニークな力作によくぞ目を止めてくれたと心底思う。


文学賞ではなく「大佛次郎賞」で2年続けて女性著者が受賞した。

最近は自分の読書で学術者を除けば男性より女性著者の方が多い(ように思う)。

ジャーナリストでもしっかりした説明・見解を展開する女性の姿を多くみる。

実に歓迎すべき現象であり、この傾向がますます拡大・確立していくことを期待する。

一方で何でもかんでも「ジェンダー不平等」のせいにする社会風潮には疑問も感じる。

自分では「然るべき女性」には「然るべき評価」をこのブログにも書いているつもりであるが、今の物差しにはずれているのだろうか?

もしかしたら世間に同じような疑問・声なき声が存在しているかも知れない。

余計なことを書きました。

「2月暦絵」で「僕と五反田」を続記しますが、1月に残り一週がありますので少々軽い本「日本語の大疑問」を差し込みます。