本牧読書日記。吉崎雅規「幕末江戸と外国人」(同成社)。
新年第一冊目。非常に面白い本に出会った。
開国以降、幕府が極力回避しようとしたのは江戸への外国人立ち入りと公館等の設置。
なんとか開港地・横浜で代替させようとする幕府と、修好条約を鍵穴にして江戸への進出を企てる外交団との駆け引き。遂に幕府は暫定的に品川、高輪、三田などの寺院を公館敷地として提供する措置をとらざるを得なくなった。寺院を拠点に徐々に定着していく英・米・仏主導の外交団や関係外国人の活動。押し止めようもない彼等と庶民を含む江戸住民との接触とその影響……本書ではそれらが絵画を見るように生き生きと描写・説明されているので、まことに面白く読めるのである。
僕は幕末史を読む時に西暦と元号を次の通り整合させる。万延を文久0年、元治を文久4年と読み替えるのである。そうすると5年間は整合する。「桜田門外」は60年・万延だし、ポイント毎に生麦事件と下関戦争は偶数年であることを記憶できる。後は慶應1~4(68年・明治元年)とトントンと順列に進める。
ただペリー(54年)からの安政年間がピンとこない。ここでもハリス等と幕府の長い「前史」があったのだが、本書で記述されているのは主に寺院公館時代からである。
安政6年(1859年)、格式ある寺院が外国公館とされた。
東禅寺(英)、善福寺(米)、済海寺(仏)等である。早速に問題が発生した。
ひとつは寺自体の「経営逼迫」、もうひとつは当然危惧されていた江戸市民への影響である。
まず第一の問題で驚いてしまうのは、幕府から各寺院への財政負担補填がたいしてなされていなかったことである。寺は檀家主体の法要・参拝・賽銭等の収入を主な財源とする。
檀家には大名等の名家も揃っており寺の格式が維持されていた。
しかし「毛唐」がウロウロする境内は当然に参拝者の足も遠のき、大名家では様変わりした寺のために大金を納めていくことに、そして更に警備費用も負担していかなければならないことに不満がうっ積し、遂に位牌を他所に移してしまうという、寺院にとっては致命的な事態も現出してしまった。
全ては一時的な弥縫策に逃げた幕府の消極政策が原因でありその綻びと言ってよい。
幕府は外国公館を一ヵ所に集める策「外国ミンストール屋敷地」を御殿山に定めて動いた。
しかしこれが漏れて早速品川宿の反対運動が起こる。実はこれも一筋縄の話ではない。北品川と横浜の名主(久三郎と佐藤佐吉)が結託して外人相手の遊郭を御殿山に造成しようとの思惑があり、更にそれが歩行新宿と南品川宿に漏れて両宿は「強欲無道」と非難、三つ巴のスキャンダルが真相らしい。
62年長洲藩士、高杉・伊藤・井上(馨)のそうそうたるメンバーによる御殿山・完成直後の英国公使館焼き討ちという有名事件がある。これには庶民の反感が背景との通説だが「しかし庶民にもいろいろな思惑と動きがあった」(本書p81)のである。
古今東西どの世にもある「欲望と思惑の錯綜」これが外国人をめぐって江戸でも始まった。
ある純血的閉鎖社会が「異邦人・異文化」に接すると一夜にして平穏でなくなる。それが寒村・横浜であれば少数日本人から埋立て地に居留地を隔離してトラブルは小規模の内に収拾可能であろう。
しかし首都・大江戸ともなると事件の意味と波及の度合いが格段に別格となる。最初は微かでも次第に従来の「統治」では押さえきれずに、次から次へと対策が要求されてくる。
禁を犯して多摩川を越えて「密航」する外国人がしばしば現れてきた。
それだけ「世界的大都市・江戸」が発する魅力は大きい。
外国人定住に伴うトラブルが頻発し出した。
重大・深刻なのは急速に吹きあがる「攘夷」の高揚による外国人襲撃事件である。
60年・通弁伝吉(英)殺害を皮切りに、通訳ヒュースケン(米)暗殺、第一次・第二次東禅寺事件(英)、御殿山焼き討ち(英)……。
本書第三章は外国人の警備問題。誰も厄介な火中の栗を拾う者はいない。
幕府は町奉行に断られ、外国奉行による「別手組」を編成するが警備陣は弱力。
ヒュースケン事件の不始末に、一時的とはいえ外国公館は江戸一斉退去で抗議。
「別手組」は幕臣の寄食二男以下の子弟で編成されており、「昨日まで(内職の)楊枝削った叔父さんが今日は別手の肝煎りとなる」と落首にまで揶揄される存在であった。
事態打開のため、幕府は遂に大名各藩を指定して警備に当たらせることとなった。
しかし藩士には「攘夷」の信念を持つ者もいる風潮の中で「外国人を守るため日本人を殺害する可能性のある外国公館警備(をせよとの命令は)幕府のこれまでの趣意に反するため「宿寺御固(め)は御国へ対したてまつり恥辱の義」(本書p115)とのジレンマを生むものであった。恥辱・苦渋の役目である。
江戸市民の目から見ても「江戸巷説 流行もの尽し」に「気がもめてつまらないものは異国人御固、御使番宿寺詰、夜鷹の亭主」と、売春婦の亭主と並べて「気がもめるわりにつまらないこと」(p120)と、からかわれている。庶民の目は実に世相の現実を見抜いていた。
警備問題は結局大名警備の終焉と別手組の任務拡大で安定してきた。
これには警備側の整備もさることながら、攘夷熱の沈静という変化によるところが大きい。
64年下関戦争での惨敗と外国艦隊の江戸入りにより彼我の国家力・軍事力の格差が誰の目にも明らかになってきたのであり、自然の成り行きである。
僕はここで70年近く前の高校日本史教師の話を思い出す(ブログにも書いたことがある)。
「攘夷を叫ぶ志士達はそれが実現できないことを知っていた。攘夷は建前のイデオロギーであり不可能事を幕府に押しつけての「倒幕」が真の目的であった」当時の僕には「目からウロコ」であった。
更に、本書p108に外国公館の警備について「トロイ遺跡発掘」のシュリーマンの日記が引用されている。この「偉大なる変人」については青木書店刊「シュリーマン」(21年7月ブログ記載)で読んでおり、彼が世界周遊の途中幕末日本に立ち寄ったことを知っている。
本書はこんないろいろな事を僕に連想させてくれる本でもあった。
なお、公館問題は「高輪接遇所」時代を経て、最終的には各国が土地を取得し個別に大使館等を設置することで決着した。
こうした公の事件と並行して江戸の世相も変容していった(第4章)。
慶應期には既に「馬車」の出現とそれに伴う道路整備があり、洋装も軍隊を始め拡大していった。しかし上野公園一帯は外国人立ち入り禁止。黒門脇で一人ひとり確認をされた日本人だけが許可された。
まして文久時代は厳しい。でもアンダーグラウンドを含めた飲食・興行・風俗についての人間の欲望は絶えることなく、絶対的に阻止することは無理であった。
寺院時代には早くも泥酔外国人によるトラブルが発生した。
変装した外国人が遊郭に出没したとの噂もチラホラ出始めた。ここで僕は想像する。
必ず手引きした日本人がいたはずである。誰で彼の動機は何だったのだろうか。
外国人の身近にいる人物で付添人とか出入の商人とか……。でも露見すれば重罪を課されかねない危険を犯しての動機は?親しくなった間柄だけではないだろう。金銭か出入特権か一緒に登楼の余録か、その全部かも知れない。何か身辺人を抱き込んだ顧客接待の社用族の匂いがする。
規制がやや緩んで外国人の吉原立ち入りが実質的にシャットアウト出来ない時期のことも出てくる。この頃になると、相手を指名された遊女が一同で暇を願い出た、なんていうことが街中の話題になる。
こうした風潮もTVやSNSに形を変えてゴシップ好きの現代にも通じる話であろう。
吉原大火(恨みを持った女性による放火が多かったことは何かで読んだ)や芝居小屋街の移転問題では、市民の関心が深いだけに幕府も頭を悩ませた。
封建時代とはいえ幕府の力が格段に衰えた幕末期。市民・庶民の意向や評判も幕府は無視できなかったのだろう。内圧と外圧の中で幕府は崩壊した。決して薩長・官軍の力だけではなかったはずだ。
本書は「同成社江戸時代史叢書35」。シリーズ本の一冊である。同成社刊は初めて読んだ。
同社はきっと「12月暦絵」で書いた「良心的出版社」の一社と思う。
著者は74年生まれ。早大文学研究科・院卒。東京港区郷土資料館などを経て、現在横浜開港資料館調査研究員。市民の一人として実に親しみを感じる。だからといって好意だけで本書を褒めている訳ではない。市民でなくても、こういったわかりやすく記述された「生きた資料の本」は大歓迎であろう。
次回は「赤い十字」。ベラルーシ作家による小説です。