本牧徒然雑記。「1月暦絵・学び直しと自分史」。

2023年、新年おめでとうございます。

暦絵は「ベリー公のいとも豪華な時祷書・1月」華やかな宴の絵といたしました。

4年目を迎える「本牧読書日記」。本年もよろしくお願い申し上げます。

たいした脈絡もなく思いつきで本を選び書いておりますが、読書とブログ作りが現在の自分の「心の糧」になっているのを、年を重ねる毎に強く感じるようになっております。

昨年暮れの報道では年間ベストセラー第1位は和田秀樹「80歳の壁」。ベストテンの中には同著者「70歳が老化の分かれ道」。図書館で老人の姿を見ることが多く、やはり「本を読む」そこに「何かを見つけたい」との意欲は衰えることなく、平均寿命と同じペースでスライドアップしているように思います。

中・高・老諸氏へのアンケートで「自分がしたいこと」の上位は常に「学び直し」と「自分史」が並んでいます。この気持ちはよくわかります。なぜなら自分も60代・70代とそれぞれに「学び直し」があったし、80代の読書とブログが幾分かの「自分史」も加わって総合的な「自分自身の表現と存在意義」に帰結していることを発見するからです。

そこで、当雑記では第二の人生からの「学び直し」の経験から書いてみます。


私が40年間「人事・労務屋」として勤務した会社では、常勤終了後1年間の「有給非常勤制度」がありました。在勤中には気にしていてもなかなかできない「充電」をして第二の人生へのエネルギーとして貰おうとの意味ある制度です。関係会社の役員を退任した翌朝「ああ、今日から行く場所がないのだ」と、小学1年から続いた「毎日行く場所がある」生活が打ち切られた実感は今でも忘れることができません。

早速「充電」に取りかかるべきですが、数ヶ月間は何だかんだの雑用処理に過ぎ去りました。

ふと自分の業務経験に合った国家資格を、と思いついて始めたのが「社会保険労務士(社労士)」の通信教育・3万円・6ヶ月のコースでした。そして年一回の本番試験に一度で合格しました。労務法規は長年の知識蓄積があるので、社会保険だけを学び直せば済んだのが幸いしました。ただ苦労の多い開業などの「仕事」は毛頭考えておりません。自分の「会社人生」を総括するのが目的で学んだからです。

振り返れば、甘いといえば甘い「リスキリング」。60代の「学び直し」でありました。

合格直後に新日鉄系の人材会社に顧問のご縁を得ることができました。面談した社長から、労務経験に加えて64歳で国家試験に挑戦・達成した意欲を評価して戴いたかな、と自負しております。

ここでの6年間は、フル勤務の時と違って労務束縛や責務は薄く、新しい業界や就業形態の世界を知り、丸の内のオフィスで時代の先端の雰囲気を味わう、しかも幸いにして実績を残すことができたという、貴重な体験であったと今更ながらに有り難く思います。

71歳寸前に浦安から本牧に転居、同時に会社がかねてから関係のあった大手人材プロパー会社と合併する運びとなったことを機に完全引退しました。


本牧70代の「学び直し」は高校数学の独学です。

特に高2から文系コースを選んだために数Ⅲを履修していなかったので、途中中断しながらも15~19年の5年間を費やして誰にも教わらずに、時には一問を1時間考えても解らずまた再度考えても解らずの苦労でやっと完遂しました。19年6月のことです。この間読書も継続していたので、7月から開始したのがこの「本牧読書日記」です。このことはブログの最初から6コマ目の「高校数学問題集」に書いています。

数学ではレオンハルト・オイラーという立派な人物を始め、多くの天才数学者を知り(その数々の理論は解りませんが)、人間が到達できない「絶対真理」に限りなく近づく「知性の素晴らしさ」をみた思いが致しました。具体的には「無限」「極限」「複素数」「微分」といった概念ですが、読書と共に自分のものの考え方に深い影響を及ぼしています。

それは例えば「ないものを「ある」と考えて築き上げてきた人間文化の双璧がすなわち「絶対真理と数学」であり、「神の存在とキリスト教哲学」だという視点。人間の「知性」と「感性」の極致」との考え方です。あるいは「存在と時間」。「存在」は結局「確率」の世界ではないだろうか?「時間は存在せず人間の認識だけのもの、三次元(実数)に次ぐ四次元目の「虚数」。四次元は「複素数」の世界」。また「この世はディジタルに細分化しきれない「境域」の連続。我々には「アナログ」としてしか感知できない世界である」等々であり、これらはまことに感覚的・妄想的に幼稚な内容と表現で時折ブログに書いてきました。

数学学習は苦労は多かったけれど、70代の学習として大きな「学び直し」でありました。


25年間に及ぼうとする読書習慣。今やこの趣味が80代の「学び直し」になろうとしています。

次第に文学や音楽に比重が移っていくだろう、とは思うものの未だ「雜読」の未練が断ち切れないのは、「学び直し」の気持ちが残存しているからだと思います。

こんな回顧を始めたのは年末の読書「存在と時間」で「81歳の壁」に突き当たったからです。

自分とは一体何者だったのだろうか?

同書の一節は「人間は机やカップのように「今この時間にモノが目の前にある」という形で存在しているわけではない。目の前のモノを眺めると同じ態度で自分自身と向き合うことはできない。人間の自己理解は、これまで歩んできた過去やこれから歩もうとしている未来と密接に関係している」です。

敢えて僕が加筆すれば「そして自己の短い未来は殆どが自己の過去に規定されている」です。

実際に現在ブログで書いていることのかなりの部分は「思い出話」となっています。

まるで自分の尾を噛んで環になっている「ウロボロスの蛇」みたいに、自分の「思い出」を飲み込みつつある。「ひとり輪廻」みたいな思いがします。

現在読んでいる「世界は五反田から始まった」は、五反田が自分が初めて働いた地であり、内容の懐かしさに全く懐旧そのものの本となっています。読んでいるのか思い出に胸が一杯になっているのか、どちらかわからないほどです。「自分史」は今の自分には必然となっているようです。

こんなことで、2月からは毎月の「暦絵」で自分史を再開するつもりです。

既に21年3月「横浜出身女優」から同年9月「小学生時代最終稿」位まで小学生時代と中学時代の一部は書きました。その後の人生を点描的に思いつくまま書いていくことになりそうです。


次回は現在3冊を並読していますので、読み終わった順に1月の読書日記と致します。