本牧読書日記。ハイデガー「存在と時間」(「100分で名著」放送テキスト。講師、哲学者・関西外国語大学准教授・戸谷洋志) (NHK出版)。
ハイデガー「存在と時間」は周知の通り、カント「純粋理性批判」ヘーゲル「精神現象学」と並んで有名だが、最も難解な哲学書といわれる。
これをカントもニーチェも1ページも読んだことのない僕が手にとるわけがない。
つまり本稿は「格好つけのブログ」である。
だいたいが、4月のNHK・TV「100分で名著」1回30分・計4回の放送案内があり、興味を覚えて録画しテキストも買ってあったのだが、その後はほったらかし。
先日やっと録画を見、テキストも読んでみた。
難解な原本について、あたかもわかったような顔をして厚かましくもブログに書く。
我ながら不埒な魂胆である。
でもこの邪道な手段もあながち排斥すべきではない。以前ブレデュー「100分で名著・ディスタンクシオン」を読み、全く未知の社会学の一分野を知ることが出来た。ブログにも書いた(21年2月)。
今回も同様の狙いであった。
しかし柳の下に2匹目のドジョウはいなかった。何分の1もわからなかったのである。
むしろ話し言葉(TV)と文字言葉(テキスト)と、それらに接した時の自分の思考の違いについて考えたことの方が大きかった。それは最後に書くが、先ず自分なりに解釈した本書について記す。
第1講は基本的説明である。
「何々がある」の「何々」が「存在者」であり、「がある」が「存在」と区別するらしい。
我々は多くの場合「存在」について考えているつもりでも、実は「存在者」について考えてしまっているという。ハイデガーはそうした「問い方」にこだわる。
そして常に「人間」の存在を分析することが必要となってくる。
存在の意味を問う存在者を「人間」とは呼ばず、あえて「現存在(Dasein・ダーザイン)」という術語に定める。もうこの辺で辟易として投げ出したくなる。
でも次の文章に出会うと、興味をつなぎとめることが出来る。以下は本書p27~31。
「人間は、机やカップのように「今、この瞬間に、モノが目の前にある」という形で存在しているわけではない。目の前のモノを眺めるのと同じ態度で、自分自身と向かい合うことはできないのです。人間の自己理解は、これまで自分が歩んできた過去や、これから歩もうとしている未来と、密接に関係しています。」「こうした観点からハイデガーは「存在とは何か」を考える上で決定的に重要なのは「現存在(人間)」がどんな「時間」を生きているのか」つまり現存在の時間性であると考えていました」。
これが「存在と時間」の書名の根拠だが、未完の原著では「時間」はあまり出てこない。
もっぱら「人間」を日常的な世界の中でとらえようとしている。
続く第2講は「不安からの逃避」という、現代人が抱えている大きな問題に絞ってハイデガー哲学を説明している。ここでは「世人(dasMan・せじん)」なる、また特別な術語が出てくる。
「世人」は「世間」あるいはその場の「空気」のようなものに近い。以下は本書p41~45。
「誰かにはっきりとそう言われたわけではないけれど、何となく「みんなもこうしてる」「こうした方がいい」という規範をもたらすもの。それが「世人」です。日常において、現存在は世人に従って生きています。人間はどんなときでも空気を読んで生き「みんな」が正しいと思うものに照らし合せて自分を理解している、ということです。ハイデガーは「この世人」とは「誰でもないひと」であり、すべての現存在は「たがいに重なりあうように存在」しながら、みずからをつねに引き渡してしまっているのである」と述べています」。強調されているのは「現存在」が語っているのは実は「世人の意見」なのだということ。
「例えばある小説を読んで「素晴らしい作品だ」と思い、雪舟の絵を観て「さすが雪舟」という時、すっかり世人的な評と一体化して、自分が本当はどう感じたかもわからなくなるほど、私たちの日常は世人に支配されています。「大学を卒業しても俺はみんなのように就職はしない。バッグパッカーになって世界を放浪し常識に囚われない自由人として生きる!」という人がいても「就職しない」ということ自体よくある選択です。「バッグパッカーは自由人だ」というのもありがちな考え方。世間的な価値観にからめとられている証しです。」。
つまり、世の中のほとんど100%の現存在(人間)はこうした状態の中に日常を過ごしているわけだが、それが現代人が常に感じる「不安」の基になっていると、ハイデガーは原著で言っているそうだ。
「現存在が世人のうちに配慮的に気遣った「世界」のもとに没頭していることによって、現存在は「本来的な自分でありうること」としての自分自身から、いわば「逃走」していることが明らかになる。」
だから感じる「不安」は例えば雷から感じる恐怖のように「自分の外にあるもの」ではなく「自分の内にあるもの」「自分が本来的に生きているのではない」との不安感なのであると結論づけている。
そこで「人間は本来的に生きることができるのか」ということで第3講に移るのだが、ここからはほとんど理解することができない。
「本来性を取り戻す」時の焦点は「誰とも交換できない「死」」。
「誰も他人からその人が死ぬことを引き受けてやることはできない」それが絶対的な「本来的な自分」であるという。話はさらに難しくなる。
「「死に臨む存在」として可能性に向かう存在は、死がこの存在において、この存在にとって可能性としてあらわになるような態度で、死に臨むのである。このような「可能性に向かう存在」をわたしたちは用語として、可能性への先駆と呼ぶことにする」。(原著)。
「可能性への先駆」とは何だろう?「死にもの狂いで本来の自分に立ち返る」ことなのか?
訳がわからない。仕方がないので、以下第3講にある見出し語の項目を列記してみる。
①「良心の呼び声」による覚醒 ②自分の人生を引き受ける ③「良心の呼び声」に耳を傾ける決意 ④自分自身であろうとする意志 ⑤先駆的な決意性 ⑥責任の主体として生きる。
疲れました。一旦打ちきり、視点を変えて(続)につなげたいと思います。