本牧読書日記。亀山郁夫「ドストエフスキー・黒い言葉」(集英社新書)。
「ドストエフスキー」。僕にとって遠い存在でありながら、底知れなく奥深い人間世界を覗かせてくれる、何とも不思議な魅力のある作家である。
僕のベストスリーは「カラマーゾフの兄弟」「白痴」「罪と罰」でありその順序。
「カラマーゾフ」は機会があれば再読したい。「旧約聖書」「ドン・キホーテ」と並ぶ僕の「三冊の文学書」である。ヨブもヨセフとその兄弟も、キホーテも、カラマーゾフ父子達も、それを読む人は誰しもが心の中に彼等の記憶の根を下ろして人生を歩むのである。
僕は「カラマーゾフ」を大家・米山正夫の訳で読んだ。しかしそれ以上にロシアを紹介してくれたのは、本書著者の亀山郁夫・名古屋外大学長である。亀山学長を知ってからもう20年になるだろう。
「磔のロシア」から始まって、沼野充義・名古屋外大副学長と共にロシア文学のみならず、帝政ロシアからソ連、スターリン体制、戦後冷戦ソ連とその崩壊と混沌といった「歴史」を通じて、ロシア文化、ロシア人、そして「ロシアそのもの」を僕に示してくれた。
だいたい、当ブログの第一冊目は「20世紀ロシア文化全史」であり、第6冊目は亀山・沼野著「ロシア革命100年の謎」である。以来何冊の「ロシア物」を掲載してきたことか。
しかしながら「ロシア」はアンドロメダ銀河のごとく、不可解に輝きつつ速度を増しながら僕から遠ざかっていく。別に「プーチン」という怪物に引っ張られて離れていくのではない。
ロシアが宿命的に有する「謎・不合理・秘密・排除・狂気・底なし……」。
そういったものが、ますます僕からロシアを縁遠くしているのである。。
にもかかわらず(いや、むしろ「それが故に」か?)どうしても消し去ることのできない「魅力」がそこにあるのはどうしてなのだろうか?
さて、本書は著者が雑誌「すばる」に19年10月~20年12月まで14回に渡って連載したものの新書化である。ドストエフスキーの多くの作品の中から様々な会話や情景を選び出して、ドストエフスキーを語ると共に「亀山哲学」を語っている。新書形態であるが、内容は「新書水準」を遥かに越えた本。
長年のドストエフスキー研究の一般向け集大成。碩学が熱く語ってくれているのである。
本書の全部にドストエフスキーの「黒い言葉」が埋め込まれており、そこに著者の思いを込めた文章が続いている。「黒い言葉」の最初のページの一部分だけでも列記してみよう。
「金とはいわば鋳造された自由である。だからこそ完全に自由を奪われた人間にとって、金は普通の十倍も重要なのであった。ポケットの中で銭がちゃりちゃり音を立てていさえすれば、仮に使い道がなかろうと、囚人はすでに半ば心を癒される」(p29「死の家の記録」)
「貧は悪徳ならず、(……)洗うがごとき赤貧となるとこれは犯罪なのです」(p31「罪と罰」)
「ルーレットってのは、もっぱらロシア的な賭博なんです」(p35「賭博者」)「金は、すべてだからです!金があれば、ぼくはあなたに対しても別人になれるのです、奴隷ではなく」(p37「賭博者」)
「冷静に落ち着いて、読みを失わずに勝負すれば、負ける可能性などこれっぽちもない」(p40。1867年ドストエフスキー夫婦は債権者から逃れて4度目のヨーロッパ旅行に出る。そしてドレスデンに妻のアンナを残して十日間もホンブルグでルーレットに没頭するドストエフスキーから妻への手紙)。
これらは僅か10頁にある「黒い言葉」である。彼は賭博狂いであった。出版社から前借りしては外国旅行に逃げ、賭博でスッカラカンを繰り返した。著者の筆は続く。「ロシアの悲劇の根源はまさにここにある。ルーレテンブルグ(独の賭博都市)は、ヨーロッパ(独・仏・英)とロシアの相異なる二つの精神が、その優位性をめぐってしのぎを削る場である。むろん、敗者がだれであるかははじめから決せられているが、破滅からの回復の手段がないというわけではない。ドストエフスキーは、その手段をはっきりと見定めていた。ロシアには、ロシアの価値、ロシアの原理がある、といわんばかりに」。…ここに「亀山哲学」がある。
ドストエフスキーの作品の至るところに「金」が出てくる。
「金」とは一体なんだろう?ドストエフスキーにとって、読む人にとって、そして人間全体と「人間の歴史」にとって、一体なんだろう?ドストエフスキーの一行、一行には「謎」が込められている。
著者は言う「ドストエフスキーは、人生のさまざまな局面において、限界的ともいえるなまなましい真実を手にいれた。それは、豊穣であるがゆえに不条理であり、不条理であるがゆえに人間的な真実に満ちた「言葉」である。」そして又、こうも書く、「ヒューマニズムの語源はラテン語「土」の「フムス(humus)」である」だからドストエフスキーの「黒い言葉」は「豊穣の証」(本書表紙・帯)でもあるのだ。
上に転記した「黒い言葉」は、本書第一章「金、または鋳造された自由」のごく一部である。
以下各章の題目は「サディズム、または支配の欲求」、「苦痛を愛する、または「二二が四は死のはじまり」、「他人の死を願望する」、「疚しさ」、「美が世界を救う」、「神がなければ、すべては許される」、「全世界が疫病の生贄となる運命にあった」、「夢想家、または「永遠のコキュ」、「不吉な道化たち」、「神がかりと分身」、「破壊者たち」、「父殺し、または「平安だけがあらゆる偉大な力の…」
各章の題目を並べただけでも怖じ気に襲われる「忌まわしい言葉」ばかりである。
「豊穣がゆえに遠ざけようとしても遠ざけられない」言葉の数々。
著者・亀山学長は「ドストエフスキーの姿」を我々に突きつけているように思われる。
ドストエフスキーは誰もの心の中にあるから、避けようにも避けられないのだ。
アンドロメダは僕から遠ざかっていく。しかし我々と同じ元素で構成されているのである。
本書にある多くの言葉の容器は綺麗なダイヤモンドの「宝石箱」とは呼べない。
何か疎ましくも手放すことのできない「黒いパンドラの箱」である。
中の石は漆黒の黒曜石である。原始時代の鋭い刃物に仕上げられた原石の黒い輝きである。
今月は「神・キリスト教」をテーマにしています。
それについては、「神がなければ、すべては許される」の章から引用しようと思いますが、長くなるので「ドストエフスキー・黒い言葉」(続)として次稿といたします。