本牧徒然雑記。「1月暦絵」・新春思いつくままに…。
2026年、新年おめでとうございます。
久しぶりの「暦絵」。画像はいつもの「ベリー公のいとも豪華な時祷書」1月・新年祝賀宴の華やかな場面。新しい年を迎える喜びは古今東西同じですね。
僕は高齢の割に自分の健康について留意することが少ない。ブログでも殆ど触れたことがありません。特別に頑健ではなく人並みなのですが、目立った慢性疾患に悩まされていないことが一番の理由だと思います。健診での指摘は少なく昨年暮れの胃腸内視鏡検査でも異常なし。血圧正常・血液データはまずまず。
当分普通に生活を維持していけばよいと思っています。
僕の「普通」とはバランスのとれた食生活(サプリメント類を飲んだことがない。酒少々、牛乳・水分は多飲)と熟睡。それに適当な散歩です。
先日面白い新聞広告を見ました。幻冬舎新書で緩和ケア医師が著者の「棺桶まで歩こう」です。
広告文は、・歩けるうちは人は死なない。・人の寿命は歩幅と背筋でわかります。・入院すると歩かないから早く死ぬ。・「穏やかな死」をじゃまするのは実は家族。・食べられなくなったら点滴もしない方がよい。・抗がん剤をやめて歩き出したら元気になった。・医療用麻酔でガンの痛みは避けられる・4歳から102歳まで幸福は寿命の長さで測れない・延命治療をやめれば苦しまない。・もっと生きたいよね?じゃあ歩きましょう。・大股でゆっくり、理想は速く歩こう。・人は病気でなく、老化して死ぬ。・ガンが大きくなっても歩けるなら死なない。・「孤独死」ではありません。「孤高死」です。……。
僕はおおいに共感します。でも妻には話しません。無用な夫婦喧嘩を避けるためです。
やはり「歩こう」ですね。
「二本足歩行」はホモ・エレクトス以来人類だけが持つ特性。似ているけれど類人猿の「前肢ナックル・ウォーク」から進化したものではない。「直立二本足歩行」こそ人類の尊厳の基礎なのです。
ただ「歩ける」だけではなく、正面を向き背筋を伸ばして胸を張った姿勢と、カカトから足親指の根本へのスムーズな重心移動を伴う歩行、なるべく歩幅を伸ばしたウォーキングこそが求められるのです。
僕は完全には実行できないけれど歩く際はいつも意識しています。強制感を伴うので歩数計は参考に見るだけ。疲れきって帰宅するような無理もしない。自分は歩数ノルマの奴隷ではないから。
食事も散歩も一番大切なのは「自然態」でしょう。ストレッチは気の向いた時にする程度。
こんな程度で済むこと自体が精神的安定のベースだと思っています。
何か支障が生じたら状況に応じて専門医に従えばよろしいと甚だ楽観主義ですが、そうした「いい加減さ」が自分の本来なので今さら改まらないのです。
こうした生活ペースの中で精神面では当読書ブログの意味は大きいです。
開始してから6年半、500記事近くになってきました。現在の週一回ペースが無理になったらペースダウンして事情が許す限り「細く長く」続けようと思っています。
理由はブログを続けていると「時間が長く感じられる」からです。
時折、以前の本を思い出してずいぶん以前、例えば2~3年前に読んだ本のつもりで目次を遡っていくと、つい1年ほど前の本だったりして驚くことがあります。逆の例はごく少ない。
思うに、相対性理論的に言って「読むこと・書くこと」の負担が「重力」のように「時間」を引き伸ばしているのかも知れません。それだけ長く僕は生きている。時間のメリットを得てきた(「タイパ」的に「タイメ」を得た)。だから余命が5年だとすると、ブログを続ける限り10年ほどを生きた感覚で目を閉じることができるのかも知れないのです。
冗談は別にして、本の内容は記憶に残っていなくてもブログを読み返せばかなり思い出すことが多い。これも書く当座は面倒で仕方がありませんが「文章化」したメリットでしょう。
バウムクーヘンみたいに薄層の積み重ねで残っていればそれで充分。これも「自然態」ですね。
以上、肉体的、精神的な「健康法」。無理のない範囲で続けていきたいと思うのです。
自分に都合のよいことばかりを勝手に書きました。
「タイパ」でいえば、コロナ前の「将棋」に費やしていた時間をテレビに振り向けた効果も大きい。かつての磯子将棋センターやパソコンでの対戦、将棋番組等、僕が「ヘボ」だったお陰で未練なく断念することができました。その時間の分だけでもテレビの画像から得られる情報力は大きいのです。
テレビは「百聞は一見に如かず」。時として文字情報の何倍もの情報を我々に供与してくれる。
昨年暮れは昭和100年・戦後80年ということで様々な回顧番組がありました。思う事は実に多い。
自分は敗戦時4歳。ちょっとだけは「戦中派」です。
戦後80年間の前半45年間(1990年のピークまで)の「上り坂」と、その後35年間の「下り坂」を見てきた。平家の知盛流にいえば「見るべき程の事は見つ」世代の末席に連なっているといえましょう。
そんな想いは今までに書いてきました。小学校の映画会の会費10円が払えない同級生がいたのです。
これからも書いていくことでしょう。「国の借金」はどうやって返していくのでしょうか?
しかしながら年寄りの悪い癖=「世相や若者の不快な部分ばかりあげつらって非難する」は控えようと思っています。ポイントは「どうでもいいこと」にいちいち文句をつけないことです。
手持ちの未読本に谷口佳子「吉村昭の人生作法」(中公新書ラクレ)があります。
吉村昭は大好きな作家。最初の部分を覗いたら「さすが」と思うことが書いてありました。
「吉村は料理を口にしてうまければ「うまい」と言い、まずければ黙っている。「まずい」と言わないところに彼の哲学があった。それは料理に限ったことではない」。……文句屋の僕はぜひ見習おう。
若い諸君の風俗や言葉遣い。こんなことはいくら不快でもいちいちを取り上げるべきではない。
彼等の多くは成長に伴って落ち着くべきところに落ち着くのですね。いい歳をしても治らずひんしゅくを買うとしても彼等なりに生きていくでしょう。他人に迷惑を及ぼさなければ許される。
それよりも多くの若者は、僕なんか遥かに及ばない例えばAIの知識と活用の世界を持っている。
先日テレビの歌番組を見た時、歌詞の斬新さに驚きました。
それが何を言っているかは別にしても(彼等はきっとイメージさえ得られればそれでよいのでしょう。エンタメ音楽はそれでよいのです)、小さな宝石をちりばめたような言葉の数々を早口で繰り出す。背景はサイケデリックな別世界。こんな世界があるのですね。
大晦日、僕は久しぶりに「紅白歌合戦」を最後の1時間程見ました。僕の評価では矢沢永吉とMISIAがベスト・エンターテイナー。立派なものです。そして前述の若いグループ達が今後どのくらい「持つ」のか心配するけれど、それは年寄りの余計な心配。彼等もそれなりに生き抜くでしょう。
この日忘れられないのは「紅白」の前に見た教育テレビ。今年亡くなったブレンデルのベートーベン・ピアノ・ソナタ第31番。「入神」の演奏でした。そして今晩はウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」。その後は録画の「リバティ・バランスを射った男」を見るつもりです。若い頃見逃した映画。それから何十年が経ったことでしようか。こうして第一日目が終わります。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
