前回「禅の調べ」と「盤珪語録を読む」を読んだ続きの続きで

こんなことになってきた・・・・・。

坐禅の「坐は」、人が二人つち(土)の上に立っているか、

座っている姿をあらわしています。

左の人は、自性(生まれたままの自然人)=宇宙塵。

右の人は、自我が目覚めている人間人(じんかんじん)=人間。

土(つち)は、原初・大自然・宇宙の姿及びその働きをあらわしています。

人間はホヤから進化していますが、頭が大きくなりすぎて、自我の比率が非常に大きくなり、自然のゆらぎを忘れてしまい、ついに土の上から転げ落ちてしまうのです。

この問題を改善するには、自我を少なくしていくか、自性(自然のゆらぎ感覚)の心を呼び覚ますことが必要です。

それには、「自然の調べ」を観る(診る)必要があるようです。

自然の調べとは、風の存在のようなものです。

その実態をつかむこと事はできませんが、この葉のゆらぎ、

蛙が水に飛び込む音、滝の音、赤ちゃんの柔らかい肌、可愛らしい笑い顔、四季の旬の食べ物、踊り、ヒトが作った芸術作品、人間の呼吸の音、人間の所作・作法、歌うこと、字を書くこと、瞑想すること、花をいける、ヨーガをする、お茶をたてる、禅の調べを聴くなどで全身で身心

の声を聴く必要があるようです。

特に、私は人間が持つ、身心の無意識の動き・象(かたど)りに興味があります。

この身心にまとわりつく桎梏(しっこく)をほどくには、

無心に自分の直感を信じて日々前に半歩進んでいき、

生ききる事が必要かもしれません。  コペル