≪今日のコペル先生独り言≫
こんな本を読んでみた。
『器質か心因か』尾久守侑・著
【記事】内科診療のなかで,明らかに心理的な反応にみえる身体症状の背景に,身体疾患が隠れているのを経験することはないだろうか.「器質か心因か」を巡る状況は内科医にとって非常にcommonな診療場面であるにもかかわらず,そのアプローチについては意識が向いてこなかった.そこで本書では,精神科の世界で古くから報告されてきた概念である「心理的加重」を紹介する.器質因があると心因反応がより起こりやすくなる現象への理解は,内科医の臨床レベルを数段向上させる.
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第1章 器質か心因か
器質か心因か
器質を示唆する症状を呈すが、心理的な問題が原因のとき
心因を示唆する症状を呈すが、身体疾患が原因のとき
1.心理的加重(psychogenic overlay)
2.健康な精神機能の減弱
第2章 鬼の首をとった気になる前に
鬼の首をとった気になる前に
心因反応と思考するに至る4つのプロセス
1.“身体疾患からの逸脱”という文脈
2.心因反応の積極的な証拠の発見
3.原因となりそうな「心理的な葛藤」の発見
4.現場をとりまく構造からの影響
第3章 心因反応の方程式
心因反応の方程式
除反応という視点
内科でよく接する心因反応のパターン
a.愁訴の増幅/情動変化
症例a1:待合で怒鳴るサラリーマン
症例a2:帯状疱疹の治療中に人格変化をきたした高齢女性
症例a3:泣き続けるマイコプラズマ肺炎の女性
症例a4:胸が苦しいと訴え続ける認知症の女性
b.過呼吸・動悸発作
症例b1:過呼吸を起こした高齢男性
c.転換症状
症例c1:失立失歩・失声を呈した女性
症例c2:ヒステロ・エピレプシー
症例c3:「脳炎ではありません」
d.神経衰弱(不定愁訴)
症例d1:テスト前の睡眠不足で神経衰弱?
症例d2:引き算しても残る便秘
症例d3:心因反応ときちんと診断する
症例d4:むち打ち症は器質か心因か
症例d5:慢性化した不定愁訴
第4章 メスの深さ
第5章 “病気”でないことの伝え方
“病気”でないことの伝え方
あまりやらないほうがいいこと
1.病的意義のない検査異常と症状を結びつけて説明する
2.身体疾患「風」の病名をつける
3.否定できない病気があることを伝える
4.とりあえず精神科/心療内科を紹介する
大切だと思うポイント
a.患者の訴えをよく聞き、事実レベルではなくメタレベルで応答する
b.検査をする前に検査異常がなかったらどうするかを尋ね、先に心身相関の説明をしておく
c.身体疾患ではどうやらなさそうと伝え、心身相関の可能性についてもう一度一緒に考える
d.精神科/心療内科を紹介するにせよ、自分で治療するにせよ、引き続き関わることを伝える
第6章 動揺が症状に影響を与える
動揺が症状に影響を与える
症例1(職場の動揺)
症例2(親の動揺)
症例3(医師の動揺)
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内容:「器質か心因か」という言葉はやや精神医学的な物言いなので、身体医学を専門とされる先生方からすればあまりピンとこない言い回しかもしれないが、極端なことを言えば「身体の病気か、そうでないか」という意味である。
例えば内科の初診外来で先にトリアージをしにいった看護師から「たぶんそっち系です」とか「なんか大丈夫そうですよ」と申し送りを受けるとき、我々は「ああ、この看護師は、患者に身体の病気はないだろうと言っているのだな」とその意味を理解する。身体症状はあるけど身体の病気がなさそうなとき、現在の身体医学という診療の枠組みでは「身体疾患ではない→心理的なものが原因(心因)→精神科マター」と考えるのが一般的である。つまり「非器質=心因」という図式がほぼ無意識に脳内で構築されていると言ってよいだろう。
「器質か心因か」を見分けることは、臨床では必須の技術であると思われる。本当は脳腫瘍なのにヒステリーと誤診したり、副腎不全なのに不定愁訴と誤診したりすることがまずいと思わない医師はいないわけで、この「器質を見逃してはいけない」「なんか変だ」という感覚は、診療を続けていくなかでそれぞれの医師のうちで不可避に涵養されていく能力である。
さて、ここまで書くと、この本は「器質か心因か」を見分ける技術や診察技法などについて書いた本なのだろうなと察しのついた読者が、「これは重要な本だ」と思ってここで読むのをやめてレジに持っていってくれたり、「よくある話じゃないか」と思って本を閉じて書店を後にしてしまったりする可能性があるが、そうではないのである。
本書で僕が述べたいのは、「器質か心因か」、もっと言えば、「器質か、そうでないか」を二元論的にどちらかに決めないといけないと考えるのが適切でない場合があるということと、「器質を除外し、なにもなければ心因と“見なして”様子を見る」という無意識のストラテジーを自動選択することで、別の重要な視点を見逃している可能性があるということである。
総合病院の内科外来で1日朝から晩まで内科の初診外来をしていると「器質か心因か」という問いがだいたい18回くらいは脳内に去来する。ここ数年はトリアージした看護師が、ちょっとどっちかなという患者さんを選択的に僕の外来に振ってくれるようになったのでやや回数が多い可能性があるが、そうでなくてもまあ1日1回は程度の差こそあれ「どっちかな」という患者に誰もが出会うだろう。なにが言いたいのかというと「器質か心因か」を巡る状況というのは、非常にcommonな診療場面だということである。しかし、その割にはこの場面で患者を「どう診るか」ということについてはあまり注意が払われてこなかったように思う。おそらくそれは、この領域が身体医学と精神医学の中間地点にあり、どちらかのものの見方だけを使うと不十分な見立てになるということに起因すると考えている。学問が分断されていても、患者は分断できない。「身体症状があり、身体医学を専門とする外来にやってきて、身体医学の診断論で身体疾患のrule outを要するけど、最終的には精神医学の治療論が必要」という、学問的にねじれた構造をもつ診療では、それぞれの学問という高みから症状を見下ろすのではなく、現場で患者と出会ったその瞬間から順方向性に適切な診療を組み立てていくための方法論が必要なのである。
ゆえに本書は「器質か心因か」を見分ける本ではない。
「器質か心因か」を巡る臨床場面で、どのように患者を見立て、治療に繋げていくかを、現場でのごく浅い臨床経験から帰納的に著述してみた本である。最新の科学論文も登場しないし、かっこいい診断推論用語も登場しない本書は、なにをしても「それってエビデンスはあるんですか?」などと言われてしまう今の医療現場では医学書と認めてもらえないかもしれない。じゃあ一体この本はなんなのかと考えてみて、「医師向けの一般書」かなという結論に至った。もちろん、できうる限りコメディカルの方にも読めるよう配慮したつもりではある。もってまわった文章と膨大な註はややウザいかもしれないが読み物としての色とお考えいただきご海容願いたい。では、早速始めようか。
