≪今日のコペル先生独り言≫

3月14日、15日と二日間、一照さんと奘堂さんの二人のお坊さんの坐禅会に参加して

とてもありがたい「気づき」を得ることができた。

何故、坐禅の終わりに、合掌して終了するのか?

それは、自分の内なる自然と外なる自然に対して感謝の祈りの為に、合掌するのでは?

坐禅は、自力と他力の両方が必要であると、長く思っていたが、重要な事を見落としていた。

*習 禅(学習禅)

 ・型を学習する禅

 ・呼吸を学習する禅

 ・心を修正する禅

 ・祈りを忘れた禅

 ・仏を学ぶ禅

 ・不自然な禅

*祈り禅(正身端坐)

 ・正身の祈り

 ・正心の祈り

 ・正息の祈り

 ・型を忘れた祈り

 ・内外の仏(大自然)

  への感謝の祈り

 ・自然ないのり禅

僕は気づいた、

奘堂和尚がバッカス(酒の神様)とヴィーナスの像の姿で受けた神秘の力は、

活き活きとした像の姿のみではなく、

和尚の内なる自然に、祈りという衝撃を揺り起こしたのではないのか。

真の祈りの扉が開くことが、重要であることを

我々に伝えたいのではないか?・・・。

合掌は、人が手を合わせることで

自分の内なる自然と外なる自然に対して感謝の祈りを捧げるもの。

習禅の逆なるものは、祈り禅(合掌禅)と表現してもいいのではないかと身読した。

追伸:僕が研究している『自然運動』も真の感謝の祈りの

気づきを表しているのではないか・・・。コペル先生より