ふらく図
あってあわずの間の稽古 その2-1
『世阿弥における気の思想 門脇佳吉』引用

前回のその1で「能」のことを書かなかったが、この「あってあわずの間」は、6月に臨済宗天正寺で佐々木 奘堂和尚さんのところで連続学習会「大阪歴史探訪学習会」で担当者 西尾 卓也さんが「上方歌舞伎の歴史を語る」というテーマでお話をして下さったときに初めて聞いた言葉でした。その時に世阿弥の話もしてくださり、門脇佳吉神父様がご存命の時に坐禅会で、人体科学会で発表していた、文章がありその文章を皆様に紹介してもいいですよと許可をいただいていたものがあり、この度の「あってあわずの間の稽古」にとてもよい文章ですので、...
門脇佳吉神父様に感謝して、ご紹介したいと思います。
長文になりますので、数回に分けて紹介いたします。

人体科学1-(1)、1-6、1992〈会長講演〉
世阿弥における気の思想 門脇佳吉

①はじめに 世阿弥について話す前に、まず一般的な「気」について話したいと思う。「気」というのは非常に広い概念である。「気」の思想は既にインドにあったが、中国で最も盛んになり、それが日本に輸入されて、世阿弥によって高度なものにまで発展していった。「気」についての記述で最も古いものは「易経」の老荘思想の中に出てくる。紀元前三世紀、いやそれ以上遡ることができるほど非常に古い伝統を持っている。中国では、病気を癒すとか、念力で物理的な力を出すといった、ただ体内に現れる現象に留まらず、さらに文学的な面が強調されている。たとえば、朱子学のことを考えると、朱子は1200年に亡くなったが、中国の儒教・道教の思想を総合して壮大な学問を作った。やがてそれが日本に渡って江戸幕府の官学になった。われわれはこの影響を多分に受けているが、その中でも「気」が重要な根幹をなしている。朱子学は儒教ゆえに「徳」を重んじる。人が人格を作るにあたって静座することが何よりも大切とされ、呼吸のこと等も語られているが、さらにそれが人格を通じて人々に与える影響にまで及んでいる。そういうものを「気象」と名づけている。今の気象学(天気) ここで世阿弥の生きた時代、1363年から1443年までを振り返ってみたい。文化史的に見ると、中世第二期にあたり、13世紀初めから15世紀末位までと考えられている。
第一紀は10世紀を中心に『古今和歌集』が書かれた時代、第二期は「風流」なものから「道」への飛躍を遂げる時代だと言われている。この説は小西甚一師の説、学会で権威をもっている(『日本文芸史』Ⅲ)この時代精神を現すものとして、新古典主義という言葉を小西師はよく使っている。古典という場合.10世紀中心の文学・芸能のことである。古典主義とは、この古典を自分たちの文化活動の典型と仰ぎ文学芸術を完成しようとする運動のことである。その古典主義に習い、しかもそれを超えて新しいものにするという意味で新古典主義がでてくる。新古典主義は、その新しさを禅と性理学(程兄弟・朱子)に求めた。丁度その頃、禅が日本に輸入されたのである。
 ご存知のとおり道元か1200年に生まれ、中国に渡って禅を学び27年に日本に帰ってきた。彼は鎌倉仏教の日蓮・親鸞と同時代に生きた人で、その頃の禅は朱子学、老壮思想からも影響を受け、「道」・「仏道」を如浄から習うことになる。このあたりは私の『道の形而上学』(岩波書店、1990年)の中に書いたので、お読みいただければありがたい。
朱子学は形而上学的な哲理を尊重し儒教を体系化する。ご承知のとおり中国人は形而上学的な哲理をそれほど得意とする国民ではないため、仏教にそれを求めた。勿論、老荘思想の中に「道」はあるが、それを体系化しなかった。朱子は儒教を体系化するにあたって仏教思想を使ったと言われている。

 世阿弥の父・観阿弥は、花や幽玄を目標に「能」を芸としてだんだん広げて行った人である。観阿弥は世阿弥が22歳の時に亡くなった。世阿弥は父・観阿弥の芸道の思想を受けてそれ完成させる。世阿弥は新古典主義の伝統の中に生き、13歳の頃、二条良基から連歌の才能を認められ和歌連歌を習い、青年期以降も和歌・連歌の稽古に余念がなかったと言われている。また、彼が道元の流れを組んだ曹洞禅を実践したことはほぼ確実である。そのことは朱子学とも結びついており、和歌・連歌には朱子学的な言葉が散りばめられていることからもわかる。さらに世阿弥は自分の「能」を完成するにあたって、形而上学的な言葉や老荘思想を禅の伝統を用い、そして深めていった。以上が世阿弥が生きた時代の大まかな流れである。

 中世文化史の第二期は「風流」から「道」への飛躍を遂げる時代である。中世第一期に生活の理念とされたものは「風流」であった。その中でも「艶」(色っぽいというより、もう少し上品なもの)が重んぜられ、それをもっと高めたものを「優」と言った。これら二つを合わせて「優艶」と言い、古典主義ではこの「優艶」が文学・芸能の中心をなしていたが、新古典主義になると和歌や芸の中で(幽玄)が重要視されてくる。それらを受けて観阿弥は、観客を引きつけるのは芸に「花」(魅力)が有るからだとし、能に新しい工夫を凝らして能の質を高める。観客を引きつける何か力強い霊的な魅力が能役者の姿から発散されていて、観客はそれを見て感動するのである。これを他の言葉で言えば「気」と言えるし、朱子学の用語で言えば、芸術的な「気象」とも言える。世阿弥が好んで用いた言葉は「風」「見風」である。これは吹く風の意味で、朱子学や聖書の中でも風【ルアハア】は霊・気・呼吸を表す。東洋と西洋の両方に同じ思想があることが分かる。今日は、ヨーロッパのことにはふれないが、その中に非常に面白いパラレリズム・平行現象があると思う。挨拶で申し上げたとおり、われわれは東洋人なので東洋を出発点にするが、この学会をただ東洋だけではなく、できれば西洋も取り込んだ大きな思想的なものにしたいと私は考えている。

 それらの思想の中にあるいろいろな言葉を見て行きたいと思う。たとえば、禅の言葉に「無」というのがある。老荘思想では「無為」と言い、人為的なことをしないで自然【じねん】のままに行っていくことをいう。禅の人たちは「空」という思想を表すためにこの「無為」から「無」を取って使っている。それは絶対的否定であり、「大死一番」し、小さな自分に死に切ることである。そうすると万物の根源である「道」の働きに満たされ、究極的な真理・根源力を身体いっぱい受けることができるのだる。そうすると、自分と万物が「道」の働きに満ちていることを悟り、すべてが「道」の働きに満ちており、「善し」と肯定できるのである。すべてが肯定される。つまり絶対的肯定と言ってよい。世阿弥は父・観阿弥から芸道を受け継ぎ、このような禅の思想で能を新しく発展させていった。世阿弥がどのように能を発展させて行ったかを、分かりやすくお茶の例で説明したい。そうすれば能が皆様にもっと親しみやすいものになると思う。

③能の起源とその本質...
 お茶に侘【わび】・寂【さび】という言葉がある。大名たちが贅を尽くして催した大名茶は豪華絢欄たる茶だったが、利休は侘茶として質素なめだたないものの中に美を見出だそうとした。ご存知の通リ、利休は禅の達人であり、禅の精神を根本に置いて、わび・さびということを言っている。「さび」というのは表面的な華やかさの反対であり、「わび」は豊かさの反対概念である。反対概念であるが、そのめだたないものの中に隠れている華やかさ・豊かさを見つけ出すのである。
 先ほど申し上げたように「万物は気によって創られている。」すべてのものは「道」という根源力によって造られた。この世界を創っている造物主たる「道」が気によってすべてを創るのである。気はまだ形に現れない微妙な影響力であるが、山川草木も人間も気象もあらゆる出来事がその気によって出来ているというのが老子・荘子の思想である。そうであれば、どんな小さなものにも「道」の働きが輝いているということになる。貧しいからつまらないのではなく、貧しいからかえって「道」の豊かさが現れるという思想になる。これはやはり禅の極意であり、「わび茶」の根本精神であって、世阿弥は「能」を仕上げる時にそれを使ったのである。華やかさだけではなくて、何もめだたないようなものの中に禅のこの思想を実現させたいと彼は考えたのである。
 世阿弥が「能」をどう見ていたかをはじめに申し上げたいと思う。「花」とか「面白い」とか、あるいは「幽玄」とか「珍しい」とかいう言葉をもって彼は能役者の魅力を表している。それらの言葉はただ単に人間が修練して到達するような人間的なものだけを表現するのではない。ここに世阿弥の素晴らしさがある。『風姿花伝』の第四に「神儀」があり、そこで世阿弥は「能」の出所は何処にあるかという話をしている。簡単に申しますと、能の起源を岩戸神話に求めている。申楽の始まりは神代初めにあると言われており、天照大神が素戔鳴尊の悪業をお怒りになって岩戸に身を隠され、その途端にこの世は真っ暗になる。非常に象徴的である。罪とか人間の悪業によってこの世が真っ暗になるのである。神々が集まってどうしたら天照大神をこの地上に引き出すことが出来るのか相談を始め、考えたことは天鈿女尊(アメノウズメノミコト)に神楽を舞わせることであった。そして天鈿女尊が神楽を舞うと天照大神はその声を聞いて岩戸を開けられるのである。するとこの世界は光がいっぱいになって明るくなった。
 そして神々の面が白くなった。能の「面白い」という言葉はそこから出て来たと言う。「面白い」というのはただ見て「面白いなあ」というのではなくて、神の光に照らされて「面白い」ということなのである。世阿弥によれば神楽が「能」のはじめであり、「能」は本来は神楽なのである。だから能役者は神職である。
 能役者は舞を舞い、謡をうたうことによって神の御心を和らげて、神よりこの世に光を送って頂き、それによって人々の心を「面白い」という感動で満たし、幸福にする。能役者はこのような崇高な天職を果たす人で、現代でもこの精神がずっと守られている。私は以前、次のような面白い体験をしたことがある。国立能楽堂で「イエスの洗礼」の公演をした時の事であった。私が「イエスの洗礼」の説明に立った。白足袋に紋付きというきちんとした格好だったが、私は舞台に上がることができなかったのである。私はカトリックの司祭であり、禅の修行も一応終えたが、それでも舞台に乗せてはくれなかった。当時は神職だけしか舞台には上がれなかったのである。このことから、少なくとも能舞台がどれほど神聖なものと考えられていたかがお分かれいただけたと思う。
 さらに、舞台の後ろの鏡の松は神の依代【よりしろ】であり、そこに神が現れる。春日神社に行くと一の松、一の鳥居の前に影向【ようごう】の松がある。「影」は神の現れのことであって、影向とは神や仏がこの世に現れることである。影向の松とは神が現れる松である。だから舞台は神聖な場所であり、このことは誰も否定できない。これは世阿弥が観阿弥から能の伝統を受けながら考えた能の本質を表す言葉である。つまり能とは舞を舞い、歌うことによって天下を照らし、人々に幸福をもたらして上下の心、庶民の心を和らげ感動させて幸せを味あわせ、延命、命を長らえさせるべきものだと彼は考えたのである。これは単なる理論ではなく、彼の場合は自分の身体でそれを体験し、そこから出た言葉なのである。能を演ずることによって、この世界と人々に明るさをもたらし、人々を幸福にすると考えたのである。これは非常に深い「気」の思想だと思う。


つづく