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こんにちは~~!
ワタクシ、冬は冬眠型で
あまり動きたくない人なんですが
春生まれもあってか
明るいほの温かい日は
ちょっと嬉しい
人生改善屋「ふ~みん。」こと
堀池典代(ほりいけふみよ)で~す
そんなこと言ってる間に
とうに、春じゃんねーーー
どうぞ皆様ご自愛してお過ごしくださいね



今日3月11日に向けて
東北震災から10年の番組が
たくさん放送していましたね。
私の体験とは桁違いの被害のすごさに
今さらこの記事を書いていて、
陳腐さを感じてしまいますが、、、
今さらこの記事を書いていて、
陳腐さを感じてしまいますが、、、
「震災26年。世代は変わっていく。若いときに体験した人々が、あの日なにがあったのか、どんな思いや悔しさがあったのか、伝えていくことが大事だ」との言葉を思い起こし、
私が体験したこととして
引き続き書かせていただきます。


震災26年。私の体験。①
クリック

小学生時代、通い慣れた
大きな国道をまたぐ歩道橋の
無残な光景を横目に
夕方5時頃
遠回りしながら
辿りついた避難所となっている小学校の体育館は
たくさんの人で溢れかえっていました。
自分達の場所を確保するのがやっとでした。
近くに、
小学校時代の年上のお姉さん(Aさん)が居て
すこし安心しました。(約15年ぶりの再会)
近くに、
小学校時代の年上のお姉さん(Aさん)が居て
すこし安心しました。(約15年ぶりの再会)
私が卒業した小学校(全校生240人くらいだった)は、
在校時80周年を迎えたのち、
ドーナツ化現象で生徒が少なくなった為
在校時80周年を迎えたのち、
ドーナツ化現象で生徒が少なくなった為
私が卒業してから
統廃合して閉校したので
もう懐かしい母校は無いのです。
(作家・灰谷健次郎さんの母校「太陽の子」の舞台でもあります)
統廃合して閉校したので
もう懐かしい母校は無いのです。
(作家・灰谷健次郎さんの母校「太陽の子」の舞台でもあります)
親しみのない避難所に
どんな設備があるのか
トイレの場所をはじめ救護室や
沢山の教室やホール・体育館を
ぐるっと見て回りました。
ぐるっと見て回りました。
まだみんな落ち着かない様子。
各場所にも廊下にもあふれる人。
廊下の電源を使って
ポットにお湯を沸かす人もいました。
公衆電話は、
緊急に無料で使えるようになっていました。
トイレは、水洗が使えないので
近くにバケツに入った水が置いてあり
用を足した後は自分で尺で流すように
という指示がありました。
避難してきた私達のために
アクセク働いてくださっている方々の様子。
そんな中、
一人だけ、同じ小学校の同級生が
一人だけ、同じ小学校の同級生が
床にぐったり寝そべっているのが見えました。
くーちゃん、
とても疲れてそう
また時を改めて来よう。。。
彼女が寝ている姿を見たのは
はじめてでした。
たくさんの人の中で
ざわざわと騒がしい中
たいしたスペースもなく
疲れた身体を横たえている彼女は、
とても疲れているのが
一目でわかりました。
せっかく見つけた友人に
声を掛ける勇気がなかった私は、
母が待つ自分たちのスペースに戻りました。
戻る途中
友人の姿を想いながら
こんな非常事態に役に立てる人になりたい。。。と
ボンヤリそんなことを考えたことを思い出します。
体育館の床に
新聞や毛布を敷いて
自分たちの持ってきた荷物で
隣の人とのわずかな境界を作り
座ったり寝転んだりしました。
こんな知らない人がたくさん周りにいる所で
眠れるのだろうか・・・
どこからともなく
被災して亡くなった人の情報が
届いてきます。
時折余震もあり
その度に、ざわめきが起こります。
ラジオを持っている人は
「今の余震は●度だって」などの情報を教えてくれます。
みんなが怖がっていました。
また、おにぎりや毛布を支給しますという
放送が流れます。
その際には
グループや家族の代表が受け取りに来ること、
グループや家族の代表が受け取りに来ること、
お年寄りや子供を優先するようにと
配慮を促されます。
みんなだまって並びます。
並んでいる私と
慌ただしく私達のために手配をしてくれている方々との
差は何だろう?と
ずっと考えていたように思います。
Aさん達ご近所と
寝る準備をして
支給された毛布を敷いたり被ったりしていると
なんだかキャンプに来たような気分になって
少し浮かれている自分がいました。
余震が続く中、
夜になっても照明は消されることなく
煌々と明るいままでした。
私と母は、2日目の昼頃に
兄が手配してくれたタクシーに乗って
西宮(コチラも被災地だけど、被害はわずかだった)にある
兄の自宅に身を寄せるため
避難所は一泊だけでした。
タクシーは有難いことに快適でした。
この快適さが、避難所に残した
まだ避難所生活を続けなくてはいけないAさん達へ
申し訳ない気持ちが拭えないでいました。
結局、同級生の く―ちゃんにも
結局、同級生の く―ちゃんにも
声を掛けず仕舞いで今に至ります。
避難先の神戸駅近辺から
兄の家のある西宮までの被害の様子を
目の当たりにすることになりました。
国道43号線は高速道路が
何箇所も落ちていて通れません。
間の細い道は
家々が崩れ出していて
道を塞いでいます。
右側(南・被害が大きい)と左側(北・被害がない)で、
パッカリと建物の様子が違う道があるのも
驚きでした。
大きな見慣れたコンクリートの大きな建物でさえ
ポッキリ倒れてしまっている様子は
夢か幻覚か、
現実のものとは思えませんでした。
結局
普段なら主要道路が
西から東に何本もあり
神戸から西宮は30分もあれば着くところなのに、
スムーズに東西に進むことができず、
南北に何度も方向を変えながら
6時間以上をかけてやっと
兄の家に着きました。
水とガスは止まったものの
それほど大きな被害はありませんでした。
大きな団地群のため
建物の向きによっては
被害が大きく出た棟もあると聞きました。
それから約一年
兄の家でお世話になりました。
週末、私の仕事が休みのたびに
神戸の自宅に荷物整理に行きますが
電車も道路も寸断されているので
西宮から舟とバスを乗り継いで
2時間くらいかけて神戸の自宅へ向かいます。
やっと自宅に着いたのに
私は、身体がいうことを聞かず
自分のベットに寝そべって
ずっと寝てしまうのです。
神戸までわざわざ行っているのに
寝てしまうのです。
母はそんな私に
何も小言を言いませんでした。
ほんと、よくできた母です、
神戸市の補助が受けられるとのことで
全壊だった家の解体日が決まり
私たちは急いで持ち出す荷物をまとめました。
物がとても多い家だったので
ぎちぎちに詰めていた分
なにも買い足すこともなく
新しい生活が充分出来そうなくらいの
たくさんの荷物でした。
いつまでも兄の家に
お世話になっている訳にもいかないと
私と母だけで住める家を考えました。
そこから落ち着くまで
3回引越しをしました。
その間、
その間、
神戸の自宅を解体し、
元々、父方の親族との折り合いが
悪かった私たち家族は、
神戸の自宅の解体後を巡って
調停をしました。
調停をすることで
嫌な気分になる親族との縁が切れたことは、
私にとって
決して震災は悪いものではない
と感じられる救いとなりました。
このことは、
いまだに私の癒しに必要な
ネタなのですが・・・ 

さて、長々と書き綴った
震災26年。私の体験。
読んでくださってありがとうございましたm(__)m
いずれ書きたいと思っていたので
ザッとで、ちっとも学びも無く
拙い文面で、ほんとうに恐縮ですが、
書かせていただきありがとうございます
なんだか
ひとつやらねばならぬ仕事をやり終えたような
爽快感があります。
今日は、東北大震災から10年。
先日も大きな地震がありましたね。
それがあの時の余震だなんて
素人にはどう解釈すれば良いのか
全く分からない域ですが。
そうぞ、みなさんが平穏無事で幸せにお過ごしになれますように
しっとりな曲調が好きです。
『花は咲く』
こんなワタクシ、堀池が書いた、
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ふ~みん。でした~






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