中国では奇数は縁起のよい陽の日とされ、3月3日、7月7日など奇数が重なる日を幸多い日と考えました。
中でも一番大きい陽の数である9が重なる9月9日を「重陽」と呼び、「菊の節句」として伝わりました。
久満崎(隈崎)は国分隼人地方七隈の一つで、熊襲の本城の隼人城(現国分小学校の山上)の山脈続きの鼻先、隈のさきであるから久満崎といった。
その昔久満崎の山上に鎮座し、参詣に便利悪く道路の橋上から拝んだので、その橋を拝田橋と称し付近を拝田といった。これが、今日のお神田となっている。
創建は不詳であるが、昔より毎年旧暦五月二十八日に庚申橋で河神祭を執行していた。この祭典は熊襲人の慰霊祭の意味があるとの伝えがあり、かなり古いようである。室町時代まで国分郷の惣社とされ、神領田三十三町歩を所有していたと記録に見える。慶長九年島津義久公が伊勢神社を隼人城下に遷し惣鎮守の神と崇めたため、この地区(上小川)の産土神となって今日に至る。
元禄八年火災にあい古記録を焼失したが、熊襲伝説を伝え、隼人神を祀るともいう。
蚊に刺された、後側の祠近く、蜘蛛の巣がいっぱいあって、ジャンプして降りたら、尻もちついて、ちょっとすり傷^_^💦💦
三国名勝図会、薩隅日地理纂考によれば、大人彌五郎別名川上梟師(タケル)の四肢を葬ると伝える。野口郷の鎮守の神となり、明治五年村社に列せられ、同四十一年一月二十一日、神饌幣帛料供進神社に指定された。
昭和二十年戦災にあい、幣殿だけの社殿となったが、住民等関係者により、同六十一年五月再建された。
明治四十二年六月十日弥勒神社(御祭神豊受姫命)を合祀した。
隼人族関係
福島鎮守神社⛩
由緒:古事記や日本書紀に書かれている熊襲の頭、川上梟師を日本武尊が征伐し、梟師の体の一部と弓矢を埋め祀ったと伝えられています。
神社の創建は、はっきりしませんが、室町時代の記録の中に、八龍権現社が福島にあり、御神体は鉾と書いてあります。これが鎮守神社のもとになっていると考えられます。