5月22日
今週金曜日に会う約束をしていた。そして、土日は一泊旅行。
ワクワクする。会うのは1ヶ月以上ぶり。

 

その予定が破談になった。

 

片道30分~1時間くらいの距離なら「また今度ねー」でいいけど、日本の北と南くらい結構な距離がある。
電車一本で行けないから、少しでも安く、楽に行ける方法を必死に調べていた。


いつものごとく、相手は時間的制約があるから時間的自由度の高いわたしが相手の近くに行く。

先週というか今週急遽決まったので、どうやって行くかでここ数日頭がいっぱいだった。

 

そして今日、何気ないメールのやりとりからエスカレートして、会う約束が白紙になった。

 

生活に関わる内容で、相手の希望に添うような行動はできないよ、イヤならやめますか?と確認したところ、言い方が嫌味っぽくキレ気味になっていたようで、心を痛めた相手がやめようという結論を出した。

 

自分から聞いたし、会っても楽しめないような雰囲気になるなら会わない方がいいと私も思っていた。だからそれでいい。

 

それでいい。頭では納得してるのに、動悸が止まらない。胸がなんか痛い。

 

なんだこの感情。なんだこの感覚。

 

拒絶されたショック?それも違う気がする。
受け入れてもらえなかった時の感覚とは違う。

 

ただ、心臓が落ち着かない。
心臓なのかハートなのか。

また何かしらの心の古傷が刺激されてるんだろうな。

 

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昔、私のことを好きになってくれた人が、私に抱きついて過呼吸になったことがある。

その時は、『相手の身体が(私に)拒絶反応を起こしている』と思っていた。

 

その人は私のせいじゃないと言ってたけど、私はこころの中で「本能的な拒否反応は身体に出るからそれだろう」と思っていた。今自分によく分からない現象が起きて思う。あれは拒絶反応ではなく過去のトラウマの何かが刺激されて発症しただけかもしれない。

 

ちなみにその人は回避型。
人生で初めて回避型と出会い、付き合った。その人がきっかけで愛着障害を知り、自分の不安型にも気づいた。気づいたのは別れてからですが。

 

回避傾向が強い人だったから、勇気を出して抱きついてくれたけどハードルが高すぎたんだ。
こころの奥深くに潜んでるスキンシップに関わるトラウマの種が刺激されて過緊張状態になったんだ。

 

過去のトラウマ、本人も覚えていないような深いところに眠っている何かが触発されて、こころが乱れる感じ。わけもわからず心臓がバクバクして緊張してる感じ。恋のバクバク·ドキドキではない。

 

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今の私のこのハートが揺さぶられている感じは、いつの何なの?
わからない。でも昔の何か、それは感じる。

 

言語化は一旦置いといて、感じ切る。感じながら探る。こころのざわつきを。

 

···1時間以上経っても落ち着かない。
3時間以上経ってもまだ心が腫れ物のように繊細になっていて、日が落ちゆく空を見ていたら10代の頃を思い出し、辛かったと涙が出てきた。

 

家の中でも、外でも、誰からも理解されなかった。
同じ人間はいないんだからそんなの当たり前じゃん。今ならそう言えるけど、当時は分からなかった。やっぱり甘えたかったんだ。

 

自分の現実は自分で創る。今ならわかるけど、当時はそんなこと知らなかったから当時の気持ちはそのまま残っている。

 

その記憶と今が関係あるかは分からない。ただ、その時の記憶と感情が出てきた。

 

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悲しい気持ちは波動が重い。楽しい現実を創造するには軽い波動領域と共振しなければ、気持ちを切り替えなければ。

 

でも今は、この感情を思いっきり楽しんで感じている。


気づいたから手放せる。手放す前に存分に味わいきる。今しか感じれない感情だから。

 

こころの重石がどんどん外れて軽くなってきているから、
ゴミや汚物で濁っていた心のオアシスが、一つ一つ取り除いて水が澄んできたから、底に沈んでいて今まで気づかなかった感情や記憶が出てくるようになった。

 

これはいい傾向。もう手放していいんだよという証拠。

 

すべてはいい方向にいっている。

 

色んな感情をもたらしてくれる、そして愛を持って接してくれる相手に感謝しています。

 

5月14日

 

大好き

 

その文字を送った。

 

やっぱり合わない。一緒に生活して幸せな光景が浮かばない。理想の生活スタイルや環境が違いすぎる。このままやりとりを続けたところで、仲良くなったところで、先がない。

と、2日前に関係を終わらせようとした人が送る内容とは思えない。

 

2日前ならまだいい。寝て起きたら考えが180度変わることだって今までも何回もあった。

 

だからこそ、今日はそういう気分なだけで数日たてばまた気が変わって関係終わらそうとするんだから、安易に期待させるようなメッセージは送るべきじゃない。

 

いつもならそう思い留めて送らない。
でも今日はどうしても送りたくなった。

 

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他の人へのメッセージを書いていた。お互い気の向いた時に、長文で、色んなトピックについてああだこうだと書く仲間。

その中で、オーダー*の話について説明していた。

 

(*【補足】オーダー:とても便利で効果テキメンなので、みなさんも是非やってみてほしい。
欲しいもの、探しているものや場所·人でも、心の中で宇宙·エネルギー場にオーダーする。
注意する点は、固有のものではなく条件でオーダーすること。
タイミングがくれば、それが手に入る、見つかる、現れる。ただし、ピンときたら直感に従う必要がある。「ザ·シークレット」という本に書かれているようなこと。)

 

そのとき、私が直近の過去にオーダーした人がふと頭に浮かんだ。そう、それが冒頭の文字を送った相手なのです。


思い浮かんだら急に大好きだなぁという気持ちが湧いてきた。他の人への文章を書いている途中なのに、その人とのLINEトークを開いた。

 

わたしが数時間前に送ったメッセージが未読のまま。たわいもない返答メール、OKとか了解とかそんな感じだったと思う。

 

普段ならガッカリしそうだけど今日は気にならない。よし、未読のまま連投ちゃえ。

 

そう思った瞬間、既読がついた。

 

「···!」

 

ここですぐメッセージを送ったら、わたしがずっと画面開いて既読待機してたと思われない?そう思われたらヤバいやつ、怖いやつだと思われない?
「今開いたところ!偶然!以心伝心!」こんなメッセージを送ろうか?
でもそれで相手から返事がきてメッセージのラリー続いたら困るしなぁ。。。

 

誤解を避けるために今日はメッセージ送らないという選択肢もあった。

でもこんな偶然があったから余計に言いたくなった。

 

そして送った。
誤解されてもいいや。怖がれてもいいや。駆け引きは好きじゃない。

 

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「好き」を伝えることの何が怖いのだろう?


1. すぐ気持ちが変わるから
2. 執着·依存かもしれない

 

1. すぐ気持ちが変わるから
気持ちは変わる、コロコロと。人間だから当たり前のことだけど。
でもわたしの場合は一般的な人より波が激しい。1日で変わるんだから。そしてまた変わる、の連続。

 

相手の気持ちが変わったら傷つく。自分が傷つく分、同じことで相手を傷つけたくない。

 

本当に好きなのか、好きな気持ちが続くのかわからない。
わからないから不安。変わってしまうかもしれない自分が。

 

だから期待させるようなことは言いたくない。

 

 ー 期待させなくて済むネガティブなことは伝えるのに?
 ー 『好きじゃない』や『好きかどうかわからない』は伝えるのに?

 

それはフェアじゃない。ネガティブなことを伝えるならポジティブなことも伝えるべき。
わたしの中の平等主義がそう主張した。

 

だから伝えてみた。

 

変わってもいいんだよ、人間なんだから。
変わる自分を許す、認める、受け入れる。
それは悪いことでも悲しいことでもない。ただの変化。

 

この宇宙に、変化しないものはないんだから。

 

 

2. 執着·依存かもしれない
執着·依存かもしれないし、本当に好きなのかもしれない。

 

わからない。

 

わからないんだよね?
だったらやりきってみたらいい。行き着いた先、結果にたどり着いたときに判断すればいい。この気持ちは依存だったんだ、執着だったんだと。

 

だから、今抱いてる感情や思考を俯瞰して感じる、その感覚に集中する。そして、記憶の片隅に残しておく。

 

いつか、この道の先にあるものが望まないものだとわかったとき、そのときにわかればいい。
そしたら、次からは同じような感情や感覚が出てきた時に同じ道を選ばないようにできる。
より幸せになる選択をできるようになる。

 

だから、わかるまでやりきってみよう。

 

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【あとがき】
愛着障害の人は、生育環境の中で親の気分にムラがあり、親の気分によって可愛がられたり冷たくされたのではないだろうか。

 

人間だから気分にムラがあるのは当たり前。子育てしたらわかるけど、母は母で精一杯。悪気があるわけではない。


ただ子どもにとって、閉ざされた家庭環境の中で依存できる大人が母親と父親、もしくは片方しかいなかった場合、この影響力は大きい。

 

だからメンヘラの人は、世間に素敵な人がいっぱいいても他に目がいかず目の前の相手(恋人)に執着する。父親なのか母親なのか、閉ざされた人間関係の中で相手がどうであれ目の前の人を求めるしかなかったからかもしれない。

 

5月13日
昨日、LINEのやりとりを消した。

 

昨日は日曜日。土日は相手から一切音沙汰なかった。
相手は平日仕事で忙しく、心にも体力的にも余裕がなく連絡してこない。

大体土曜日、たまに日曜昼間に連絡がくる。

 

今回はめずらしく金曜夜にやりとりしていた。

  • 「週1」ノルマを達成したということかな?

  • やりとりの〆に、重めの内容を送ったからかな?

  • 相手の気持ちを落とすような内容を送ったからかな?

  • 機嫌損ねたかな?

そろそろ私のネガキャンに堪忍袋の緒が切れて、恋から目が醒めたのだろう。

しばらくは、もしくはもう二度と向こうから連絡してこないだろう、そう思った。

 

しかし、まさかの今日、メッセージを受信した。

 

涙が出てきた。嬉しかった。
終わりにしようと決意したのに、メッセージがくると愛おしくなって気持ちを切り替えられなくなるから、困るんだけど。
そんなことを思いながら、でも何かが込み上げてきて、泣いた。

 

なんの涙なんだろう?何に安心したんだろう?過去の何を埋めているんだろう?

 

こういうこと、前にもあった。

 

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あれは海外の語学学校に通っているとき、一緒に住んでいた家の家主が学校まで送り迎えをしてくれていた。

 

たまたま勤務先が学校の近くで、たまたま会社に行く時間と帰る時間が学校の授業時間とあまり変わりなく、送ってもいいわよと言われ甘えさせてもらった。

 

毎日帰りに迎えにきてくれて、それだけでありがたいのに、少しでも遅れたら「残業で、待たせてごめんね」と言われた。遅くなったと言っても15分とか30分。

 

海外の人にとって、特に車社会の田舎の人たちにとっては、子どもを学校に送り迎えするのは当たり前のことかもしれない。

 

でも、私にとっては当たり前のことじゃなかった。

 

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小さい頃、家から幼稚園の迎えのバス停まで小さい子どもが歩いて30分以上、毎日姉と歩いて通っていた。
帰りも、他の子たちは親がバス停まで迎えにきているのに、私と姉は、子どもたちだけでいつも歩いて帰っていた。

 

「えらいわね」「すごいわね」「しっかりしてるわね」

 

そう言われて鼻高々になるときもあったけど、ほとんどは羨ましい気持ちになることが多かった。

 

いいなぁと思ったところで現実が変わるわけでも誰かが迎えに来てくれるわけでもない。自分の足で歩いて帰るしかない。

あきらめの気持ちとかでなく、ただ現実を受け止めていた。あるものはある、ないものはない。

 

歩いて帰るのは決して苦ではなかった。

子どもだから、楽しみながら、遊びながら帰っていた。
バスを降りて他の親子を見る時だけ、そういう気持ちになった。

 

学校に上がって、日曜参観の日も、授業が終われば親が待っていて一緒に帰る子が結構いた。

 

「親と帰るのやだよぉ」というノロケを聞き、「今日はごめん」といつも一緒に帰ってる友だちの断りを受け、そして少し羨ましい気持ちを感じながら、自立した子を装いながら歩いて帰っていた。
今思うと、自立した子ではなく、自立させられた子だったのかもしれない。

 

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語学学校の授業が終わり、他の同学生たちのホームステイ先が次々と車で迎えに来る*。

そして、みんな迎えの車に次々乗って帰っていく。

彼ら、彼女たちに「じゃあね、また明日」と手を振りながら、私もあとで迎えが来るんだ~!そう思えるだけでとても嬉しかった。

 

(*ホームステイの場合は学校と提携しているので送迎が含まれている。私の場合は自分で部屋を借りたので、通常であればバスや徒歩で自力で通学する。ちなみに田舎の学校だったので、私以外はみんな学校寮かホームステイだった。)

 

得意げに、お先にどうぞと見送れる自分が、嬉しかった。安心していた。
そして、涙が込み上げた。

 

あぁ、私は小さいころ、親に迎えに来て欲しかったんだな。今、その穴を埋めてもらっているんだな。

 

30過ぎたオンナが、4〜5歳の未就学児が抱くような願望を満たされて泣いた。
家主の人が女性で、年上で、私を育てていたころの働く母と重ねやすかったのかもしれない。
私の見た目が海外視点では20代前半だったので、私のことをまだ若い子だと勘違いして母親のように気にかけてくれていたのもあると思う。

 

あの時はわかりやすく、いつのどんな感情が昇華されているのかがわかった。

 

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今回はなんだろう。
相手は男性だから、父親かもしれないし、性別関係なく親や人からの何かかもしれない。

 

離れていったと思ったのに、もう関係は切れたと思ったのに、連絡をくれた。しかも予想より早く。

 

この嬉しい気持ち、なんだかほっとした気持ち、自分の中を探してもいつのどんな感情の埋め合わせかわからない。

 

でも、理由はわからなくても大丈夫。
心のどの穴かわからなくても、満たされた、満たされている、それを感じることが大事。感じている感覚を認識するが大事。

 

もしかしたら今はまだ埋めている途中かもしれない。埋めきれてないから、どの穴かわからないだけかもしれない。
いつか満たされて、平坦になったら、あ、この凹みだったのかと気づくかもしれない。

 

あせらなくていい。わからなくてもいい。
今感じたことを感じていれば。

 

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【あとがき】
愛着障害不安型の行動特徴の一つに「試し行動」があります。
これでも愛せるのか、と相手の忍耐力と受容力と愛を確かめる行為なのですが。

 

私が最後に送ったメールは、試し行動だったのか?
いや、そんな自覚はない。ただ思ったこと、思っていることを伝えているだけ。伝えるべき内容だったかどうかは別として。

 

(相手の反応に)ほっとした気持ち、嬉しい気持ちの後に、じゃあこれはどうだ、これでもか、と次々難題を繰り出したくなるのは試し行動。

 

その衝動がなくはない。でもしない。意味がないとわかってるから。
試し行動は相手が根を上げるまでやり続けることだから。

 

愛情を求めているはずなのに、なぜか壊すことが目的となってしまう。
そして相手が怒ったら、離れたら、ほらやっぱり、危うく信頼して傷つくところだったと自分に言い聞かせる。

 

なぜなら、「どうせ愛されない」「自己中の愛なんでしょ」と固く信じているから。
心の奥底で、本人も気づかない深い記憶の中で。

 

思考はエネルギー。
「愛される」ことが信じられないのであれば、「愛されてないかもしれないけど、愛されてるかもしれない。」と、まずは0%を50%にしてみるといいかもしれません。