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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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とにかくひっくり返りそうだった。
アスペルガー症候群の藤家が言うには、世界とはこんな感じらしい。
【ここから引用】━━━━━━━━
『神様のパシリ』
私はシルバニア・ファミリーのおもちゃを持っていたのですが、あれは動物の人形たちを手で動かして遊びます。
私は、自分が生きている世界もそういうものだと捉えていました。
ただ、私たちを動かす大きな手は見えませんし、手で動かしていたらぶつかってしまうと思ったので、この世界を大きな巨人が上から覗いていて、とても高性能のコントローラーで私たちを動かしているのだと思っていました。
そして、他の人は巨人がいることを知らないけれども私は知っている、うふふ、私って魔女かも、でも悪いことはしないから白い魔女かも、って思っていました。
━━━━━━━━【引用ここまで】
『自閉っ子、こういう風にできてます![正] ニキ リンコ、藤家寛子 花風社』
より
巨人というのは神様の使いっパシリらしく、神様というのは自然のことを指すようだ。
また、藤家にとって、よその家は書割[カキワリ](舞台の大道具や背景)のように見えていたらしく、そこに急に明かりがついて中で人が動くのが見えた時、びっくりして凍り付いてしまったらしい。
どうやら、自分の関係ないところでも生活の営みがあるということに驚いたらしいのだが、逆にその考えに驚かずにはいられない。
うちの父親なんかも、自分と関わりのあるものしかこの世に存在しないかのように考えていることがあった。
それは、恐らくこういう世界観のせいなのだろう。
藤家にとって、世界は一幕の芝居のようなものだったようだ。
【ここから引用】━━━━━━━━
私は私という役。
クラスメートはクラスメートという役。
親は親という役。
だから(よその家の明かりがついた時)自分の知らない、役がないはずの人がそこにいたということに驚愕してしまった……
━━━━━━━━【引用ここまで】
らしいのだが、
こんな自分目線しか持たない奴、付き合いきれないでしょ。
また、ニキ・リンコもこう言っている。
【ここから引用】━━━━━━━━
『クラスメートは学校の備品』
家に帰ると親がいます。
学校に行くとクラスメートがいます。
クラスメートとは教室にいるものだったんです。
まさか一人一人におうちがあって、そこから通ってきているとは思いもしませんでした。
━━━━━━━━【引用ここまで】
自閉は他人を物扱いすると言われたことに対し、「そんな人非人みたいなことはない」とニキは否定していたが、クラスメートを備品だと思う感覚は十分に人でなしだろう。
2人ともクラスメートの家に遊びに行ったこともあるらしい。
しかしそこでも、ニキは、A子ちゃんだけは特別な役という認識だった。
藤家も、「私がいる」からそれもシーンの1つだと思ったようだ。
どこまで行っても、世界は私が主人公の物語で、私と関わる人間はこの物語の登場人物でしかない。
それ以外の物語も、私と関わらない登場人物も、この世には存在しない。
私と関わった人間の、私の知らない側面も、ありはしない。
ということか……。
因みに、自分が死んだら世界はどうなるかという質問に対し、藤家はこう答えている。
【ここから引用】━━━━━━━━
変な話ですが、万が一自分が亡くなったら、世界はどうなると思います?
周りの人は、生き続けると思いますか?
……そうですね。「完」という字が出て、終わり、になるように思えます。
━━━━━━━━【引用ここまで】
これなら、他人が自分のためにしてくれたことに感謝しないのも当然だろう。
飽くまで、相手も役で演じていると思っているのだから。
脚本に「私は相手に感謝する」とあれば、それに従うのだろう。
発達障害の人が、言われなければ全くやらないが、言われたことには素直でかつ正確にやるというのは、こういうところに要因があるのかもしれない。
逆に、言われたことに対し定型からは全く意味不明なところで反発するのも、シナオを読み込めなくて混乱しているということか。
自閉っ子2人の世界観を聞いて、ふと思い浮かんだのが『トゥルーマン・ショー』という映画だった。
主人公トゥルーマンは、生まれた時から巨大なセットの中で生きていて、その生活を365日、世界中に生中継されている。
両親も幼なじみも妻も、トゥルーマンに関わる人物の全員が作品のキャストであり、自宅も職場も全てがセットだ。
だが、ただ1人そのことを知らないトゥルーマンが、少しずつ世界に疑念を持ち始める。
改めて見直して思ったのは、自分の人生が仕組まれたものだったなんて、やはりショックだなということ。
自分で選んだ人生、自分が作ってきた未来だと思っていたのに、シナリオで誘導されていたとは……。
ところがだ。
発達障害の人間は、決められたシナリオを生きていると思っているというのだ。
しかも、決まっていることで安心できるらしい。
あらゆる出来事、自分に絡みのある人間の言動も、そういう設定だと思っているらしい。
それぞれの人間の意志や生活など、ありはしないのだという。
見えないから。
だから、未来も決まっている。
彼らにとって未来とは、これから自分が演じるシナリオのことであって、そこに至るまでの自身の言動によって変わるもの、変えられるものという認識はないのだ。
母親が、まるで未来を知ってるかのように人の選択を決めつけていたのも、父親が人の努力を鼻で笑っていたのも、そういうことだったのだろう。
この上なく虚しい真実に、ここ数日、脱力感で一杯だ。
無論、藤家、ニキの2人は、自閉の世界観が真実ではないと気づいた。
今は、巨人に操られているなどという妄想に支配されることはないと言っていい。
だからこそ、かつての自分の世界観について語ることが出来ているし、定型の俺が情報を得られているのもそのおかげだ。
しかし、それを「発達障害が治った」などと表現していたり、「定型の世界がわかるようになった」と喜んでいるのは、さすがに性急過ぎると思う。
一生教えを請う子どもの立場でいられるならともかく、自分が教え導かなければいけない立場の親などにはなれないのだから。