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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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初っ端から言葉を選ばずで申し訳ないのだが、北海道の教育委員会というのはアホの集まりなのか?
そんなつもりじゃなかったって何?


>「字が読めないのか。おまえは色盲か」などと発言した。

だったら「字も読めるし、教員資格も持ってるのに、なぜあなたは差別が何かも知らないんですか?」って言いたくなっちゃうよね。

色盲という言葉が差別的なのはもちろんなんだけど、字が読めないことをバカにするというこの教師の感覚が、教育者としてあるまじきものだと思う。

出来ないことや不得手なことがあった時に揶揄するという対応は、昔からよくある。
教師でも親でも友達同士でも。
でも、だからこそ絶対に変えなければいけない部分だと感じる。

この生徒に障害があろうとなかろうと、この教師の発言は大間違いだろう。


>生徒は色覚障害者であることを、教諭やクラスメートには伝えていなかった。
>訴訟で道側は「教諭は障害者であることを知らず、侮辱の意図はない」と主張。

意図はないって何?
もういい加減「そんなつもりはありませんでした」を、言い訳として認めること自体やめようよ。

「セクハラという認識はなかった」「差別する意図はなかった」
こんなセリフを何で普通に言わせてんの?

この問題は「この生徒がたまたま色覚障害者だったから差別になった」という話ではない。
そのことを、この裁判官でさえもちゃんとわかってるのかな?


この教師が、字が読めない人間のことをバカにしている
ことは明らかだ。
その感覚が当然のものとして生徒たちの前で表現されたことが、大きな問題なのだ。

当事者がそこにいるかどうかが問題ではない。
それが問題なら、当事者がいなければ何を言ってもいいしどんな差別も許されることになる。


色覚障害者だけではなく、その教師がバカにするようなタイプの人間が生徒の中にいなかったとしても、差別には違いないのだ。
なぜなら、この教師の態度によって、生徒たちは「字が読めない人間はバカにされる」「字も読めない人間はバカにされても仕方がない」と教わることになるから。

いくらそんな意図はないと言ったところで、差別感情は必ず人に伝わる。
その程度のことも想定していないことが問題だと思う。
失言ではなく、根底にある意識や無意識下にある感覚の問題だ。

もし謝るなら「侮辱する意図はなかった」ではなく、「差別が何かも知りませんでした」というのが正しい。
この教師の意図を問題にしている時点で、そもそも差別が何かを分かっていない。




差別とかハラスメントというのは、受け手側がどう感じたかが問題であって、行為者側の認識は全く関係ないんだよね。

例えば、行為者が受け手を思い本当に善意でやったことだとしても、受け手には迷惑な行為であった場合は差別やハラスメントになる。

じゃあ善意の行為者はどうしたらいいかというと、やめればいいんだよ。
ただそれだけでしょう。

その際、受け手側が何を嫌がっているのかを理解していなければ結果的に嫌がらせを繰り返してしまうので、受け手の気持ちに寄り添う必要があるということ。
受け手の気持ちになるというのは、極端な話、行為者の思いは捨てるということ。
善意でも悪意でも、軽率でも慎重でも、嫌だと言われたら受け手のその気持ちを一番に考えて行動することだ。

そうすることが真の思いやりでしょう?

行為者が「私は善意でやった」とか、世間一般から見てこれは善行だとか、多くの人が行為者の言動を好意的なものと評価したとか、そんなことは全く関係ない。
受け手以外の誰に何を言われようと、受け手の気持ちを尊重するのが思いやりでしょう。

俺はそう思うんだけどな。

行為者の意図が最優先になってしまうから、イジメも虐待も許してしまうのだと思う。
親がいくら躾だ愛情だと言ったところで、子供にとって毒でしかなければそれは毒親なのだ。




差別をしないというのは、偽善者に引きずられないことだと思う。

見た目や周囲の評価に合わせれば、わりと簡単にいいことをした気になれる。
でも、受け手は喜んでくれているけれど周囲からはそう見えない場合、それを続けるには覚悟や信念が必要になる。

一番タチが悪いのは、前者を選んで自分が気持ちよくなってるだけなのに、私はいいことをした良い人だと思っていることだ。

俺はこの前者に利用されたことが何度もあるので、大っ嫌いです、こういう人。
自分がいい人だって思われたいだけだよねって指摘すると、大概怒ります。
まあそりゃそうだよね。
俺にありがとうって言ってもらうことが目的なんだから。


差別しないということは、受け手にとって不快なことをしないということ。
理解とは、受け手が望むあり方のこと。
周囲から見て好意や理解に見える言動のことではない。

人は、わかりやすい弱者をわかりやすく助けていいことをしたと思いたくなるもの。
でも、いいことしたという満足を追うなら、それは親切行為をした自分が大事なのであって、受け手が本当に助かったかどうかが大事なのではない。

親切という形、理解という形を押し売りしないこと。


理解するというのは、そんなに簡単なことではない。
だからこそこの教師には、なぜ自分が文字を読めない人のことをバカにしていたのか、ちゃんと向き合ってほしい。
そういう自分と向き合えなければ、この教師は今後も差別を繰り返す。
どんなに言葉を選んでも、そんなものは生徒には見透かされると思う。



追伸

沢山の励まし、温かいコメントありがとうございます。
余裕がなくお一人お一人に返信することはできませんが、とてもありがたく思っています。
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