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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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絶歌((単行本))
元少年A (著)
この本、僕は読みたいと思っている。
興味本意というのも、否定するつもりはない。
仕事などで読まされる訳ではないのだから、それは否定できないだろう。
僕は、高校生ぐらいから教育や心理に興味があって、その一つに犯罪心理があった。
今も犯罪者の特異な欲求に共感を覚えることはないが、犯罪に至る先天的、後天的影響には関心がある。
ただ、僕が持つような興味関心が、研究や教育などの職に生かされるか、犯罪者を作るかは紙一重だとも思う。
いや、犯罪関連のものに触れただけで犯罪者になりやすくなるなんてことはない。
通常は「やっぱりこんなことはしてはいけない」と、再確認するのだと思う。
それが、一部の人間には間違った刺激になることがあるのだろう。
犯罪本などは飽くまでも起爆装置であって、本体がなければ爆発しようがない。
しかし、本体を持っている人間を見極められない今、触発されて事件を起こす人間はこれからも出てきてしまうだろう。
それに、犯罪の関連本は他にも山ほどある。
触発される人間なら、メディアの糾弾でも、被害者の極刑を望む声でも、全て刺激として吸収するだろう。
では、この本の出版は仕方ないのか。
そうは思わない。
被害者の意向は無視してよいのか。
この本で収入を得てよいのか。
。
閲覧者に制限はなくてよいのか。
これらの点を考えたとき、他に方法はあったはずだ。
一つ、この本に意義があるとすれば、それは犯罪資料としてだ。
社会的には、加害少年Aの感覚は残すべきだと思う。
それを知らずして、事件の解決や防止はないのだから。
となると、一般の販売はもちろん、元少年Aに印税が入ることもおかしい。
誰かも言っていたが、これでは金儲けや本を書くために人を殺しかねない。
この本が売れるのは、言うまでもなく、殺人犯少年Aが書いたものだからだ。
「著者=元少年A」以外に価値はない。
神戸連続殺傷事件「元少年A」はなぜ手記を出したのか? 太田出版・編集担当者に聞く
太田出版は、苦情に対し「読みもしないで」と文句を言っているが、何を勘違いしているのか。
中身など関係ない。
出版したことが問題なのだ。
少年Aがどれだけ更生していようと、謝罪を繰り返し被害者にも響くものであったとしても、犯罪資料として非常に有用なものでも、全く関係ない。
更生を一般市民に知らせるのはただの自己顕示欲。
それらを一般市民が知る必要などない。
普通の人は、ただの一度だって大事件を起こさず生涯を終えるのだから、せめて今後は当たり前にひっそりと全うに生きればいい。
謝罪は被害者にするもの。
それ以外にするのは、他の目的でしかない。
資料に必要なら、販売などせず閲覧を制限して資料として残せばいい。
加害者が元少年Aを名乗れるのも、それによって収入を得られるのも、全ては被害者の上に成り立っている。
なのに、それらが元少年Aの書きたい気持ち一つで成し遂げられていいものか。
小池一夫氏が言っていたが、「この本は少年Aが書いたのではなく、32歳の成人が書いたもの」なのだ。
未だに匿名として保護されながら、被害者の感情を無視して欲求を満たすことは、許されるのか。
一方で、被害者の気持ちを代弁するかのように非難することもしたくない。
僕は、我が子を失うことはおろか、そこまで大切な人を持ったこともない。
それゆえ、被害者の気持ちがわかるともわからないとも言えない。
自分の経験の何と比較したら良いのかさえ、全く想像がつかない。
だから、ここぞとばかりにレビューで叩きまくってる輩にも、違和感を覚える。
加害者は法的には罪を償っている。
だから、彼は過去の罪について今さら責めを負う必要はない。
だが、法や理屈と感情は別だ。
第三者が勝手に激怒するのもどうかと思うが、これだけの事件を起こしてたった7年で社会復帰できることに、同意する国民は少ないということだろう。
だが、だからといって彼を追い詰めてしまったら、また犯罪に走る可能性もある。
彼も生きていかなければならないのなら、色んな意味で居場所は必要だ。
となると、罪を償った少年Aを社会は受け入れなければいけない。
ここに、国民感情と法のあり方に大きな開きがあるのだと思う。
この事件を期に少年法は改正されたが、それでも匿名は守られ、様々な更生プログラムの下、手厚く保護されている。
そんなことを今頃知った太田出版もどうかと思うが、この制度もどうか。
僕は、ここに悔しさを覚える。
中でもこの少年Aは、かなり特別な保護を受けているらしい。
殺人という取り返しのつかない事件を起こした少年にこれだけの保護がある一方で、事件を起こさず耐えている人間に社会は厳しい。
何かで目立たないと、見つけてもらうことすら叶わない。
そんな見えない子供が大人になったら、今度は「もう大人なんだから自力で頑張れ」と言われてしまう。
冗談じゃない。
更生した元非行少年より、一度も非行に走らなかった子をより評価すべきだろう。
人は行き詰まると、誰かを傷つけるしかなくなる。
そして、元凶を殺すか、自分を殺すか、第三者を殺すかになる。
多くはそのどれもしないように生きているのだから、それをしてしまった犯罪者が厳しい扱いを受けるのは当然だ。
色々書いてみたが、自分が被害者の立場でも同じことが言えるかどうかはわからない。
いくら資料として有用でも、それに協力する気になる日など来ないのかもしれない。
中古で安くなったら、買うつもりだ。
それまで、読まないままだった被害者、加害者両方の親の手記に、目を通そうと思う。
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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絶歌((単行本))
元少年A (著)
この本、僕は読みたいと思っている。
興味本意というのも、否定するつもりはない。
仕事などで読まされる訳ではないのだから、それは否定できないだろう。
僕は、高校生ぐらいから教育や心理に興味があって、その一つに犯罪心理があった。
今も犯罪者の特異な欲求に共感を覚えることはないが、犯罪に至る先天的、後天的影響には関心がある。
ただ、僕が持つような興味関心が、研究や教育などの職に生かされるか、犯罪者を作るかは紙一重だとも思う。
いや、犯罪関連のものに触れただけで犯罪者になりやすくなるなんてことはない。
通常は「やっぱりこんなことはしてはいけない」と、再確認するのだと思う。
それが、一部の人間には間違った刺激になることがあるのだろう。
犯罪本などは飽くまでも起爆装置であって、本体がなければ爆発しようがない。
しかし、本体を持っている人間を見極められない今、触発されて事件を起こす人間はこれからも出てきてしまうだろう。
それに、犯罪の関連本は他にも山ほどある。
触発される人間なら、メディアの糾弾でも、被害者の極刑を望む声でも、全て刺激として吸収するだろう。
では、この本の出版は仕方ないのか。
そうは思わない。
被害者の意向は無視してよいのか。
この本で収入を得てよいのか。
。
閲覧者に制限はなくてよいのか。
これらの点を考えたとき、他に方法はあったはずだ。
一つ、この本に意義があるとすれば、それは犯罪資料としてだ。
社会的には、加害少年Aの感覚は残すべきだと思う。
それを知らずして、事件の解決や防止はないのだから。
となると、一般の販売はもちろん、元少年Aに印税が入ることもおかしい。
誰かも言っていたが、これでは金儲けや本を書くために人を殺しかねない。
この本が売れるのは、言うまでもなく、殺人犯少年Aが書いたものだからだ。
「著者=元少年A」以外に価値はない。
神戸連続殺傷事件「元少年A」はなぜ手記を出したのか? 太田出版・編集担当者に聞く
太田出版は、苦情に対し「読みもしないで」と文句を言っているが、何を勘違いしているのか。
中身など関係ない。
出版したことが問題なのだ。
少年Aがどれだけ更生していようと、謝罪を繰り返し被害者にも響くものであったとしても、犯罪資料として非常に有用なものでも、全く関係ない。
更生を一般市民に知らせるのはただの自己顕示欲。
それらを一般市民が知る必要などない。
普通の人は、ただの一度だって大事件を起こさず生涯を終えるのだから、せめて今後は当たり前にひっそりと全うに生きればいい。
謝罪は被害者にするもの。
それ以外にするのは、他の目的でしかない。
資料に必要なら、販売などせず閲覧を制限して資料として残せばいい。
加害者が元少年Aを名乗れるのも、それによって収入を得られるのも、全ては被害者の上に成り立っている。
なのに、それらが元少年Aの書きたい気持ち一つで成し遂げられていいものか。
小池一夫氏が言っていたが、「この本は少年Aが書いたのではなく、32歳の成人が書いたもの」なのだ。
未だに匿名として保護されながら、被害者の感情を無視して欲求を満たすことは、許されるのか。
一方で、被害者の気持ちを代弁するかのように非難することもしたくない。
僕は、我が子を失うことはおろか、そこまで大切な人を持ったこともない。
それゆえ、被害者の気持ちがわかるともわからないとも言えない。
自分の経験の何と比較したら良いのかさえ、全く想像がつかない。
だから、ここぞとばかりにレビューで叩きまくってる輩にも、違和感を覚える。
加害者は法的には罪を償っている。
だから、彼は過去の罪について今さら責めを負う必要はない。
だが、法や理屈と感情は別だ。
第三者が勝手に激怒するのもどうかと思うが、これだけの事件を起こしてたった7年で社会復帰できることに、同意する国民は少ないということだろう。
だが、だからといって彼を追い詰めてしまったら、また犯罪に走る可能性もある。
彼も生きていかなければならないのなら、色んな意味で居場所は必要だ。
となると、罪を償った少年Aを社会は受け入れなければいけない。
ここに、国民感情と法のあり方に大きな開きがあるのだと思う。
この事件を期に少年法は改正されたが、それでも匿名は守られ、様々な更生プログラムの下、手厚く保護されている。
そんなことを今頃知った太田出版もどうかと思うが、この制度もどうか。
僕は、ここに悔しさを覚える。
中でもこの少年Aは、かなり特別な保護を受けているらしい。
殺人という取り返しのつかない事件を起こした少年にこれだけの保護がある一方で、事件を起こさず耐えている人間に社会は厳しい。
何かで目立たないと、見つけてもらうことすら叶わない。
そんな見えない子供が大人になったら、今度は「もう大人なんだから自力で頑張れ」と言われてしまう。
冗談じゃない。
更生した元非行少年より、一度も非行に走らなかった子をより評価すべきだろう。
人は行き詰まると、誰かを傷つけるしかなくなる。
そして、元凶を殺すか、自分を殺すか、第三者を殺すかになる。
多くはそのどれもしないように生きているのだから、それをしてしまった犯罪者が厳しい扱いを受けるのは当然だ。
色々書いてみたが、自分が被害者の立場でも同じことが言えるかどうかはわからない。
いくら資料として有用でも、それに協力する気になる日など来ないのかもしれない。
中古で安くなったら、買うつもりだ。
それまで、読まないままだった被害者、加害者両方の親の手記に、目を通そうと思う。