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佐世保女子高生殺害事件 Wikipedia


佐世保の事件で俺が一番気になっているのは、加害少女が殺人に至ってしまった『衝動』が、どう形成されてきたかということである。

少女が話したと言われる「解剖欲求」は、どこでどのようにして生まれたのだろうか。


少女の発達に自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群、注意欠陥多動症=ADHDなどの発達障害)が基本にあるとしても、生育環境に幾多の問題があったとしても、それだけでは説明がつかないと思う。


自閉症スペクトラム(ASD)が、いくら想像力がない、他者に共感性がなく無関心といっても、それが「人を殺してもいい」という発想に繋がるというのは、論理が飛躍しすぎている。

まして、「人を殺したい」という欲求なら、ASDの特性とは関係ない。

殺人衝動に繋がる要因は、別にあるのだと思う。






佐世保の事件を聞いて思い浮かべた2冊の本がある。


『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤 幹夫 著

『十七歳の自閉症裁判――寝屋川事件の遺したもの』 佐藤 幹夫 著


親が何らかの発達障害だと確信を深めていた頃、重い内容ながら食い入るように読んだ覚えがある。

どちらも犯人に罪の意識がなく、謝罪や反省が見られないというのが衝撃的だった。


『自閉症裁判』の中では、犯人が被害女性に対し、親しくなりたいと思って近づいたと語っている。

しかし、レッサーパンダの帽子を被った長身の成人男性が、ナイフ片手に近づいたら、相手は親しみなど感じない。

それが、軽い知的障害を伴う自閉症のこの犯人にはわからないのだが、裁判では信じてもらえない様子が綴られている。

犯人は、脅すつもりも殺すつもりもなかった。

なぜなら、相手が何に怯えるか、どうしたら人が死ぬのかを理解できていないので、脅迫の意図も殺意も存在しないのだ。

だが、当時は発達障害に対する理解も進んでいなかったので、責任逃れの嘘としか思われない。

もちろん、本人に殺意がなくても、背中を滅多刺しにした罪は償わなくてはならず、犯罪者が自閉症だった場合の難しさが綴られていたと記憶している。




もう一つ、佐世保の事件と似ているということで、読もうと思っている書籍がある。

『人を殺してみたかった―17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ』 藤井 誠二 著


この事件は、2000年に豊川市で高校生が高齢者夫婦宅を襲い、その奥さんを殺害したもの。

この家を狙ったのは、どうせ殺すなら未来のある若い人より高齢者がいいと思ったから。

出頭した理由は、寒くて逃げるのに疲れたから。

殺すことも含め、「こんなに疲れるとは思わなかった」とも語っている。


先日ラジオで話していた藤井氏によると、「被害女性に詫びる気持ちはないのか」という問いに、加害少年は「女性は死んでしまったから謝れない。男性は生きているから謝れる」という趣旨のことを答えたという。

彼の供述によると「人を殺してみたかった」というのは、「人が死に行く様を観察してみたかった」という意味のようなのだが、彼も殺人が犯罪であることは認識していた。

だが、最後まで、後悔や反省の様子は見られなかったらしい。


この少年は、アスペルガー症候群と診断されている。




彼の供述は自分からの視点ばかりで、相手の気持ちや犯罪というルールに考えが及ばず、その部分はアスペルガー症候群の特徴をよく表している。

これらは、定型だとすると不可解に思えるのだが、アスペルガー症候群であれば、実はアスペルガーなりの論理があって説明がつくことも多い。

ただし、これは問題が起きてから紐解いた心理であり、問題を起こす動機が発達障害にあるわけではない。


この少年の言う「人が死に行く様を観察してみたかった」というのが、一体どこから来たものなのか。

この欲求さえなければ、たとえ重度のアスペルガー症候群でも、この事件は起こりようがなかったと思う。






自閉症スペクトラム(ASD)は、他者視点が非常に乏しい。

だから例えば、叩きたくて叩く自分の視点だけで、叩かれる相手の立場と比較したことがないなんてのも珍しくない。

視点を反転させた叩かれる相手のことを直接言葉で教えないと、全くわからないまま大人になることもある。

叩かれる立場を経験しても反転出来ないので、散々叩いてきた人が叩かれた途端に被害だけを訴えたりする。


さらに、過集中や強いこだわりがあるタイプだと、自分の欲求や衝動に夢中になり過ぎてしまうことがある。

他者視点が乏しいASDがこの状態に陥ると、他人の都合や周囲の状況を無視して突き進み、そのこだわりが自分を傷つけるとしても、衝動を止められないこともある。




佐世保の事件の場合、加害少女には以前から「解剖欲求」という強い衝動があったのだろう。

一方で、事件の現場には、大切な「友人の命」も「犯罪」というルール違反も存在していた。

それは彼女も認知していたと思われる。

だが、「解剖欲求」という強い光の前には、「命」も「犯罪」も霞んでしまったのかもしれない。

もしくは、「命」や「犯罪」の辞書的な意味は理解していても、その重さを実感したことはなかったのかもしれない。

加害少女が現場にそのままいたのも、強心臓なのではなく、自分がしてしまったことの意味を理解していなかったからだろう。




多くの人は、自分の欲求があっても他人の都合も考えるし、その欲求が他人を傷つけるようなことなら、思い止まったり、そのような欲求を抱く自分に罪悪感も持つだろう。

だが一部のASDは、他人の都合が見えないために、自分の欲求とその他の要素を天秤にかけることが出来ず、欲求の強さだけで行動してしまうのだと思う。

そこには一般的な物事の優先順位や、人の傷の大小、犯罪の軽重などは存在していないのだろう。

だから、「ケーキが食べたい」も「人を解剖してみたい」も、同じ欲求の一つでしかないかもしれない。

また、その欲求を満たすために「ケーキを買う」ことと「人を殺す」ことは、同じ手段の一つとして認識していて、同じテンションで行われるのかもしれない。


もちろん、ケーキを買うような気持ちで人を殺されては堪ったものではない。

友人であることも、犯罪という抑止力も、解剖のハードルにはならなかった要因を解明してほしい。




一つだけ、「解剖欲求」を形成した要因として、気になっていることがある。


人は皆、幼い頃は残酷だ。

虫を捕まえたつもりが、握り潰していることがある。

そこに、命を軽視する冷たい心などない。

加減を知らないだけだ。


蝶や蜻蛉の羽を一枚一枚取ってみたり。

それも純粋な好奇心だろう。

どうなるのかを知りたくてやってみただけだ。

それが取り返しのつかない死とは知らない。


無邪気というのは残酷だ。




ASDは発達異常ではなく、未成熟らしい。

だからもし、この幼い残虐性が残っているASDがいるとしたら。

動機の形成に納得が行くだろうか。