【羊たちの免罪 第三話】
夕暮、雨は止んでいた。
灰色に覆われた大空は、凛の身体の芯までその勢力を広げている。とても冷たい。
隣にいる母は、身体の中に在るすべての水分を出し切るように涙を流し続け、そうして今は、人間の形をした壊れた人形のように、眉ひとつも動かなくなっている。
死んでいるといわれても、驚きはしない。
「母さん、行こう」
何の反応もない。もう何回、これを繰り返しているのか分からなくなってきた。引き摺ってでも連れて行こうかとも考えたが、筋力の弱い僕には到底できることではない。いくら女性と言えど、相手は大人だ。
この時、凛の呼吸は正常だった。脈も一定で、体温も変わらない。今思えば、恐ろしいほど何ひとつ、変わっていない。あの時は、人間ではなかったのだろうか。
昨日と同じように太陽は隠れ、緩やかに灰色の空が姿を現す。
只、昨日と違ったのは、光莉の姿が無いことと、母が屍のようになっていることだけだった。
* * *
あの日、僕らは家族で登山の計画をしていた。
登山といっても、流浜山という近所の山で、登山というには物足りないほどに小さな山だったが、登山ルートもしっかりと敷設されていて、幅の広い石の階段を一時間ほど登っていけば登頂できるような山だった。階段には手摺もあるし、光莉はともかく、運動神経の悪い凛や、体調の安定しない母でも問題ないと思っていたのだ。
それにこの登山計画の条件として大前提だったのが、母の体調が良い日だったからだ。
とはいえ、万が一のことも考えて、母は大丈夫といったが、凛が一番後ろを歩いて、母に何か起こった時に対応できるようにしていたつもりだった。凛も光莉も、母のことばかりを考えていた。
いつも我先をゆく光莉が、他人のことを第一に考える状況は初めてだったのだ。
自宅から山の麓まで一時間ほど車を走らせ、流浜山に到着した。
早朝ほどの雨ではなかったが、まだ小雨程度ではあるが雨は降り続けていた。天気予報では、あと一時間もしない間に雨は止むということだったので、麓でそれぞれ用意したカッパを着て、長靴を履いて、万全を期していざ階段を上り始めた。
麓に居た管理人のおじさんは、「今日は雨で滑りやすいから気をつけなさいね」と凛と光莉に一言声をかけた。
なんとなく予想はしていたが、石の階段で手摺もあり、とても安全な状態での登山は、世の子どもたちが想像するような登山とは程遠かった。光莉もすぐにそれに気づいて少し不機嫌になったが、母さんと外に出る時間なんて久しぶりなんだから楽しいでしょ、なんて一言を言うと、すぐに機嫌を取り戻した。
久しぶりのお出かけをそれぞれが楽しみながら小一時間ほど歩いた。そうして三人は予定通り、頂上まで登り切った。
「雲ばっかり! 海ほとんど見えない……」
「そりゃあ、この天気なんだから最初から分かってただろう、今日は景色を見に来たんじゃないって」
「ふふ、景色を見に来ない登山客なんて、そうそういないわよ」
「そうだそうだ! お兄ちゃんのカタブツ!」
「カタブツ⁉ お前、どこでそんな言葉覚えたんだ……?」
「もう二人とも頂上で喧嘩はダメよ~? お母さん、今良い気持ちなんだから」
光莉がベロを出してあっかんべ~をしてきた。すこし腹が立った。
「凛、光莉、ありがとうね。今日、あなたたちとここに来れて、お母さん幸せだわ」
凛と光莉は目を合わせて、お互いの右腕を前に出し、ピースをした。
「お母さん、これからも元気でね!」
光莉がそう言うと、母は目に涙を浮かべた。
「うん、きっと今日からはずっと元気よ」
母はそう言って、それから少し休みたいとも言った。
母と凛が頂上の屋根付き小屋で休憩をしている間、光莉は早朝からの雨で作られた水溜りの集団を、踏んで遊んでいた。
「ほんとに、なんでこの天気でも元気なんだなあいつは」
「良い事じゃない。凛が私とこうやって座ってる方が、少し面白いわよ?」
「僕はそういうタイプじゃあないんだ、あいつと違って大人なんだ」
「ふふ、はいはい」
刹那。
光莉が水溜りを踏みつける音が消えてなくなった。
違和感。
凛と母は、ただなんとなく、光莉のいる方を見つめた。
只、そこに光莉の姿は無かった。
「光莉‼ 光莉‼」
母が叫ぶ。今までに聞いたことのない声の大きさで。
「ねえどこ? 光莉‼ 返事して‼」何度も母が叫ぶ。
母は何かを察知したように小屋から走り出し、海の見える頂上から顔を下にして、叫び続けた。
凛は何が何だか分からなかった。
母は尚も叫び続けている。声が掠れ始めた。
凛はしばらく声を出すこともできなかった。
母は息が切れるまで叫び続けた。そして、水溜りの上で膝をついて、天を仰いだ。その姿はまるで、神に祈りを支えているかのようで、神聖な何かを確かに感じた。
凛は母の元へ歩いた。母が光莉の名前を叫んでいた付近の土がぬかるんでいた。
凛は、光莉がここから落ちてしまったのだと、そこではじめて理解した。
いや、本当はとっくに気づいていた。
気付いて理解したら耐えられないと思った。
灰色の雲の隙間から光が差し込んでいる。
遠くに見える街中から、山の頂上付近まで、光の柱が次々に地上へ届く。
そして、光莉が居なくなった水溜まりの近くにも、一本の細い光が届いた。
母はその光に手を差し出し、凛もそれに続いた。

