【羊たちの免罪 第六話】
目覚まし時計のベルが鳴るより先に身体が起きたのは久しぶりだった。
橋本悠里は大きく伸びをして、寝起きでも艶やかな黒い髪を指でなびかせてから、カーテンを両手でバサッと開けて、押し寄せる暖かい光を笑顔で迎え入れた。気落ちの良い朗らかな朝だ。
昨日と同じように、一度部屋を出て、向かいの洗面所へ移動する。
蛇口を捻ってぬるい水が出たところで、ヘアバンドを額に被せ前髪を上げる。そうして、寝起きの顔に冷たいままの水をかける。何度か繰り返す内に少し、温かくなってきた。蛇口の横にあるポンプ式の洗顔料は、時間の無い朝にとても重宝している。それを二回押して、肌に直接触れない様に優しく泡を撫でていく。
————顔面パイケーキをされたような滑稽な顔が鏡に映る。鏡が汚れている、あとで掃除をしなければ。
いつものように、泡が残らない様に丁寧に洗い流していく。ベテラン社員のベルトコンベア作業のようだ。
それから寝室の横の居間に行き、小さな置き鏡の前に座る。すぐ横に置かれた化粧下地とファンデーションと叩き、慣れた手つきで眉毛を書いて、ほとんど無味の口紅を引く。
その後、三段の箪笥から黒のキャミソールを取り出し、箪笥の横にあるオープンクローゼットから女性用の修道服を取り出す。修道服に接吻をしてから、およそ三十秒で着替えを済ませた。そしてウィンプルと呼ばれる白い頭巾を、黒い髪の毛がすべて収まるように被り、その上から黒いベールを被った。
最後に、箪笥の上に置かれたアクセサリーケースから十字架を手に取り、それを首に掛けた。
彼女は居間を出ると同時に大きく深呼吸をして、両手を腹部の上で軽く重ねてから、一階の礼拝堂に向かった。
閉まり切っていない礼拝堂の扉から、チャペルチェアに座っている葉山凛が祈りを捧げているのが見えた。
悠里はシスターの制服を身に纏って、凛が祈る姿をただ見つめた。美しい祈りだ。
数十秒そんな時間を過ごしてから、悠里は凛の祈りの邪魔をしない様にゆっくりと扉を開けて、えんじ色のカーペットを、これも足音を立てない様にゆっくりと進んだ。
凛はいつもと同じ、右側の最前列のチャペルチェアに座っている。
悠里が礼拝堂へ行くよりも先に、凛はいつも祈りを捧げている。若いのに、朝が早い。爺さんになってしまったら、真夜中に目が覚めてしまうのではないかと思う。
偶に、お互いの僅かな朝の時間の相違によって、祈りを捧げ終わった後の彼の顔をみることがある。
ある人は、願いを求めて。ある人は、他の人の救いを求めて。ある人は、罪を告白し、そしてある人は、赦しを求める。その他にも、人々の数だけ、その祈りの真髄は多種多様に変化する。
他人の信仰に足を踏み入れることはシスターとして、そして信仰者、一人の人間としても途轍もない罪である。信仰に他人の意思が介在してはならない。
「シスター、僕、ここの教会で牧師になりたい」
今から約一年前に凛が放った言葉が、悠里の脳内を駆け巡る。当時は驚いた。実際のところ、後継者問題には悠里も頭を悩ませていて、知り合いに頼み込むとか、絶対嫌だと言うが妹に打診してみようか、などと考えていた。勿論、凛や幸太郎を見習い牧師として一から育て上げることも一案ではあったが、この教会は学童保育のような形を理想としているため、「今から君は、私の跡継ぎになってもらう」なんて、教会に住んでいる子供たちに責任を押し付けるようなことはしたくなかった。
なので、凛がそう言ってくれたのは、悠里としては喜ぶべきことではあったが、同時に、本当にそれでよいのだろうか、他の道に向かうのを我慢しているのではないか、この決断が凛にとって、生涯にわたる後悔にならないだろうか。幾度も真剣に考えたが、納得のいく答えが出ることは無かった。こういう時に、信仰は救いとなる。
「もう一度、光莉に……妹に……会いたい…………」凛が呟く。
瞬きの後、合掌していた両手を解いて、祈りが終わる。
悠里は、凛が座るチャペルチェアの真横にゆっくりと移動した。
凛は、不敵な笑みを滲ませて、それから悠里に気付いた。
「……あぁ、シスター。おはようございます。今日は心地良い天気ですね」
* * *
凛とは、「もうすぐ朝食だからそれまでに食堂に来るように」とだけ会話をして、直ぐに悠里は礼拝堂を後にした。何故なら、今日は郵便物が届く日だからだ。
朝食の前に手早くポストの中を確認してから、急いで食堂に向かい、三人分の朝食を作らなければならない。
幸太郎もそろそろ食堂にくる時間だ。幸太郎は大人しい子で、美味しそうな朝食の香りを嗅いでいるだけの時間が多少あろうが、特に何も文句を言わない子ではある。
しかし、修道院のシスターとして、大人として、子らには礼儀作法を習慣づけさせる必要がある。シスターとは、常に正しくあるべきなのだ。
郵便といっても地方の教会で、しかも今は凛と幸太郎と私の三人しかいないのだから、ほとんど郵便物は届かない。たまに色々な保険関係のお知らせだったり、水道光熱費の請求書だったり、諸々の税金関係のお便りくらいだ。つまり、ほとんど悠里が処理するものだ。子どもたち宛ての郵便物は、滅多にない。
朝食を作るときに使うバターを切らしていないかどうかを気にしながら、悠里は礼拝堂から真っすぐに正面玄関の方へ向かった。室内履きのスポックシューズがコツコツと鳴り響く。
玄関口に着いたところで室外用の黒いサンダルに履き替え、正面玄関の扉を思い切り開けた。
その瞬間、気持ちの良い朝の秋風が室内に入ってくる。悠里は郵便ポストを見る前に、大きく息を吸い込んで肺の中の空気を入れ替えた。さて、と言ってから、悠里は扉の真横にある郵便ポストの中を確認した。
水道代の請求書が一枚。御用達のスーパーマーケットのチラシが一枚。そして、見慣れない白い便箋が一枚。
「便箋……? うーん珍しい、私宛かな?」
素朴な疑問によって、その便箋は裏向きにされた。
『 葉山 凛 様へ 』
驚いた。凛は三年ほどこの教会にいるが、今まで彼宛ての郵便物がきたのは、入って一年目の冬に流行り病で中学校を休んだ時、担任の教師が欠席連絡のお便りを届けに来てくれたことくらいだ。そのとき、クラスメイトから、授業のノートをコピーしたものが同封されていて、「ちゃんと学校で友達がいて良かった」と、胸をなでおろして安心した記憶しかない。
それに悠里が気がかりだったのが、『差出人の名前が書かれていない』ことだった。
個人宛ての郵便物で、差出人が書かれていないとなると、それなりに用心する必要がある。悠里は直感でそう思った。
気は乗らないが、少し危険だ。せめて中身を確認する必要がある。もしかしたら、脅迫めいたものかもしれない。
おそるおそる、白い便箋の封を切ると、中には一枚の手紙が入っていた。
『 葉山 光莉 は 生きている 』
秋風がもう一度、強く吹いた。
冷たい風だ。全身に鳥肌が立つ感覚があった。
たった十文字の言葉に心臓を撫でられる。
久しく感じていなかった恐怖を身に纏い、悠里はペンギンのような足取りで、玄関の扉へ向かった。
「光莉ちゃんが…………生きている…………?」
玄関の扉を閉めてから、腰を抜かしたようにその場に座り込み、悠里は自問した。
そんなはずはない。光莉ちゃんは、三年半前に家族での登山中、山の頂上から落ちて、亡くなったと聞いている。
ここに来た時、あの事故を担当したという警官の笠井さんが凛君を連れてきた、その時に確かにそう言っていた。
なにかの悪戯だ。
「でも、だとしたら、誰が、何のためにこんなことを…………」
悠里は迷った。この便箋に書かれた一行の文字列を、凛に見せるかどうかを。
単純に喜び、安堵するだろうか。突然の出来事に信じられず、趣味の悪い悪戯だと思って怒りを見せるだろうか。
それとも、妹が未だ生きているという事実に、
————あ。
その時、礼拝堂で天を仰いだときの彼の笑みが、悠里の脳裏をよぎった。
自分でも顔が青ざめているのが分かる。
悠里は胸に手を当て、決断した。シスターとして、嘘を付かずに真実を知らせなければならない。ここですべてを知らせても、知らせなくても、凛の人生はこれから大きく変わる。彼の人生は、彼だけのものだ。
悠里はその手紙をもう一度便箋の中に戻してから、まだ少し粘着性が残っている封を力強く指で押した。
* * *
礼拝堂の扉が開く。ほどなくして凛が姿を見せた。
悠里は、恐る恐るそれを凛に渡した。思わず手が震える。今、自分がどんな顔をしているか、考えたくない。
凛は困惑顔で便箋を受け取り、それから封を開け、しばらく絶句していた。
時折強い風が吹きつける音が聞こえた。それしか聞こえなかった。真空の数分を二人は過ごす。
「…………正直、驚きすぎてよく分かんない。本当だったらそれは嬉しいけど、そんなことあるのかな…………?」凛が震える声で言う。
「……そうね、凛君。ともかく、朝食の後、ゆっくりと考えましょう。幸太郎が食堂で待っていると思うから」
「そうですね、ちょっと一気に考えすぎてお腹空いてきました。ていうか、今から作るんですよね、手伝いましょうか?」
「ふふ、いや、大丈夫よ。ありがとう。幸太郎と待っていてくださいね」
「分かりました」凛は内心ホッとした。
————僕の料理スキルは未だ一つも成長していない。
厨房に立ってしまえば死人が出るかもしれない。悠里さんも幸太郎も、まだ死は望んでいないはずだ。
それでは、と言って悠里は、食堂へと向かった。凛も、悠里に続いた。
便箋を渡すとき、悠里は噓を付いた。
身体中から冷や汗が止まらない。後ろを歩く凛に、この異変を気付かれないか、心臓が飛び出そうなくらいに心配している。つい先刻まで昨日と変わらない朝だったのに、あの便箋を対峙してから、ここが昨日と同じ世界だと思えない。
……正確には、嘘を付いたわけではない。ただ、凛に全てを伝えたわけではない。
あの便箋には、手紙のほかに、一枚の紙切れが入っていた。
こんな、たかが十数文字の黒い線が、彼の運命を大きく揺るがして良いわけがない。そんなこと、あってはならない。……あってほしくない。
『――――――Y市南区、首都高速沿いの公園付近。静寂の中に在り。』
紙切れを持った悠里の視界が、薄く涙で濡れた。