時の県令・楠本政隆と新潟随一の
医師・竹山屯にひいきにされた
ミオラの牛肉店
新潟兵営などからも注文があり
次第に繁盛していった
当時ミオラの店で提供されていたのは
佐渡牛で、月に一回、帆船で
運ばれていたという
やがて明治十一年(1878)
東中通りに移って西洋料理を
提供するようになりさらには
牛乳配達もはじめた
ところが明治十三年(1880)
新潟の半分をも焼き尽くす
大火が起こりミオラの店も
消失してしまう
ミオラの失意は言うまでもないが
沈んでばかりはいられない
周囲の応援によって再び立ち上がる
と
この翌年
新潟証券取引所の前身である
「米商会所」の跡地
すなわち現在の地に
ステンドグラスやシャンデリアで
飾られた二階建ての洋館を建設し
これを
「イタリヤ軒」と名づけたのだった
(のちに
「イタリア軒」と改称)