我々個々人は、世界精神というべきものと孤独というものの狭間に生きている。世界精神は「国際貢献せよ」という仮面をかぶりながら「善悪の価値」という得体のしれない「空砲」を個々人に向けて容赦なく乱発する。或る個々人は無意識的にその弾に当たり、或る個々人は意識的にその空気に媚びへつらう。
経済学者、政治学者達とは、一般的に女性の口説き方の一般論を構築しているようなものだ。それを基にして政治家たちに「何々だから何々しなさい」と肩を撫でているいるようなものだ。その女性というのが世界精神である。皮膚の色や髪型は新陳代謝により、日々流転する。徐々に、しかも確実に。一方、「孤独」は個々人にとって唯一の真理であるが、反作用の磁石のようにそれには容易に近づけない。双方ともにN極だからだ。
孤独とは何者か?それはこの「瞬間」の連続であり、「過去」と「未来」という日常が実はこの瞬間からの「空虚の漏れ」と自覚している瞬間である。この空虚の漏れというものが曲者で、その漏れが漏れ続けると、その空虚をあたかも何かの「真理だ」と錯覚してしまうようになる。そう、その錯覚の真理こそが世界精神である。世界精神は空虚なのである。と同時に真理、すなわち絶対的存在である。
世界精神は我々の歩く道に絶対的な強制力を持つ。我々個々人に容赦なく赤紙を送り、我々に容赦なく戦争への道へと駆り出たさせる。憲法や法律というものは実は世界精神のアクセサリーであり、世界精神の頭脳ではない。我々個々人がその世界精神を操っているのではない。いや、その逆で、世界精神はあたかも我々が世界精神を操っているように見せかけるのがとてもうまい。操られているように見せかけて、我々の方が骨の髄まで操られている。
世界精神の栄養分は何か?金融緩和か?公共事業か?はたまたお金そのものか?いや、そういう幻影ではなく、我々個々人の「頭脳」という物質である。物質の頭脳を栄養分としてその世界精神は肥大化していく。富とは何か?世界精神はこう言うだろう。「ドルと答える者は何かを勘違いしている。それは創造する想像力そのものだ!」と。とはいうものの、世界精神は幻影である。世界最高の幻影である。我々の日常を影から支配している幻影である。
我々は「孤独」という真理をもっと追求しないと、その世界精神という幻影に飲み込まれてしまうのだ。「我々は必ず死ぬ」これが「孤独」という真理の言い換えである。「当たり前じゃないか!」というかもしれない。しかし、これは当たり前ではない。「我々は必ず死ぬ」はそもそも当たり前と出来る代物ではない。常に我々は個人精神の内奥「私だけは違う」という無意識的確信を持っている。よくよく考えてみると、目の前に広がる世界を我々は認識しており、その目の前の世界で他人の「死」を目で見ているに過ぎない。よって「当たり前の死」と個々人が実存的に感じる死には決定的な断絶があると言わざるを得ない。
その「実存的に感じる死」とは何か。それこそが「孤独」なのである。愛着する全ての存在から離れること、それが孤独である。存在が流転し愛着している存在が消えてなくなるという不安感を肌で感じる。いずれにしても「我々は必ず死ぬ」それ以上でもそれ以下でもない。