時間はほんの少しさかのぼる。ミニョとシヌが言い争いをした日の深夜。ミニョが寝た後、ジェルミが帰ってくる少し前。
テギョンの意識は不思議な感覚に包まれていた。
それは例えば、蟻地獄に落ちた虫が真っ暗な闇の中、登っても登っても崩れる斜面に足を取られ、地上に上がれないような。例えばお風呂の栓を抜き、たまっていた水が渦となって排水溝に吸いこまれていくような。どちらも実際に経験したことはないが、表現としてはそんな感じだろうか。とにかく何だかよく判らない強い力に引っ張られ、自分の意思とは関係なく遠くに見える小さな光のもとへと連れて行かれる。そしてその光に触れた瞬間、目も開けていられないほどの閃光に包まれた。
気がつくとそこは闇の世界だった。目を見開いても閉じているように暗い。
「ここは・・・どこだ?」
身体を起こすと、ズキンと頭に痛みが走った。小さなうめき声をあげ、こめかみを押さえる。しばらくそのままでいても痛みは変わらなかったが、ふとあることに気がついた。
「俺、今、自分の頭触ってるぞ」
両手で顔や頭、身体をペタペタと触ってみる。立ち上がり、上半身をひねったり、その場でジャンプしてみたり。
「動く・・・俺、動いてるじゃないか!」
手を握ったり開いたりして、指があることも確認した。何よりさっきから触っている感触は、ほどよく筋肉のついた男の身体で決して綿の詰まったぬいぐるみではない。
「俺は死んでなかったのか!?」
暗闇でずっと目を開けていたせいかその闇に目が慣れてきたようで、うっすらと辺りの様子が判るようになってきた。わずかに見える細い光の方へ近づくと、どうやらそれはドアの隙間から入りこむ外側の光だということが判り、テギョンはドアノブに手をかけた。
思い切って開けたドアの向こうは眩しくて目を細めたが、明るさに慣れてきた目に映ったのは見慣れた合宿所の廊下。
「どうして俺はこんなとこにいるんだ。俺は死んだはずじゃ・・・もしかして今までのは全部夢だったのか?飛行機が墜ちたのも、俺がテジトッキになってたのも」
混乱する頭のままよろよろと自分の部屋へと向かう。中に入り電気をつけるとベッドで寝ているミニョが見えた。
「ミニョ・・・」
もしかしたら今見ているのが夢なのかもしれない、そう思ったがそれでも構わなかった。
すやすやと穏やかな顔で眠るミニョの傍らには寄り添うようにテジトッキ。テギョンはベッドの端に腰かけると、恐る恐るミニョの頬に手を伸ばした。
そっと触れた指先から手のひらへと柔らかな温もりが伝わる。とても夢とは思えない、現実としか思えない感触は震えるほどの喜びを与えた。
「ミニョ・・・」
今すぐにでも思い切り抱きしめたい衝動をねじ伏せ、額にかかる前髪をかき分けると優しく唇を落とす。
「ミニョ・・・」
目を覚ましたらどんな顔をするだろう。驚いて声も上げられないだろうか。それとも大きな目に涙をいっぱいため微笑むだろうか。
鼻の頭、頬と、軽く触れるだけのキスをして。
「ミニョ・・・」
早くその瞳に自分を映したいと唇を重ねた。
温かさを確かめるようにそっと触れては離れ、そっと触れては離れ。柔らかさを確かめるように何度も啄んで。
「う・・・ん・・・・・・」
やがて唇に触れる感触が覚醒を促したのか、ミニョがうっすらと目を開けた。そして至近距離にある顔に驚きその目が大きく見開かれた。
直後、ミニョは息を呑み素早く布団を頭からかぶった。そのまま布団から顔を出そうとしない。
「ミニョが驚くのも無理はない、俺もどうなってるのか判らないんだ。死んだと思ってたのになぜかここにいて・・・これは現実か?夢のような気もするし・・・」
「な、何言ってるんですか!?夢だからキスしたって言うんですか!?」
「あ?いや、夢だからとかじゃなく、嬉しくて、つい、というか・・・」
もっと喜ぶと思っていたのに。もしかして抱きついてくるかもと思って広げていた手は行き場をなくし、宙で虚しく止まっていた。
「寝てる間にキスしたのが嫌だったなら謝る。だから顔を見せてくれ、抱きしめさせてくれ」
「嫌です!」
思いもよらないミニョの反応。
「なっ!・・・おい、何をそんなに怒ってるんだっ!」
自分のことを拒絶するような態度にテギョンはいら立った。
無理矢理布団を引きはがすと、ミニョはテジトッキを抱きしめながら目に涙をためていて、小さく丸まっている姿は何かに怯えているようにも見えた。
「おい、どうし・・」
「出てってください」
ミニョに背中を押されテギョンはぐいぐいとドアの方へと追いやられた。
「私、シヌさんがそんな人だとは思いませんでした」
「はあ?ちょっと待て、何を言ってるんだ」
「シヌさんのこと見損ないました」
「おい、さっきから何でシヌの名前が出てくるんだ」
「何でって・・・ふざけてるんですか、シヌさん!」
シヌと呼ぶミニョの目はしっかりと自分に向けられていて。
あまりにも真剣なミニョの表情に何が何だか判らないままテギョンはバスルームに駆け込み、そして鏡を見て言葉を失った。
そこに映っていたのは・・・自分の姿を映し出しているはずの鏡に映っていたのは・・・どこからどう見てもシヌの姿だった。