シヌが帰ってきた時、リビングからミニョの楽しそうな声が聞こえてきた。あきらかに誰かと会話している声に、てっきりジェルミが先に帰っているのかと思ったが、そこにいたのはミニョ一人だけだった。
「だってタオルで拭いたくらいじゃ乾きませんよ。自然乾燥だと時間がかかりすぎてカビがはえそうだし」
そっと様子を窺うと、電話をしている感じでもない。
「はい、判りました」
その声はぬいぐるみに向けられているものだった。
「ただいま。何だか楽しそうだね」
一人で話しくすくすと笑っている後ろ姿にすぐには声をかけられなかったが、思い切って声をかける。振り向いたミニョは笑顔で「おかえりなさい」と言ったが、「オッパと・・・」と口にするとその後の言葉を濁し、二階へと消えてしまった。
それを見ながらシヌはため息をついた。
テギョンが見つかったという連絡はまだない。あったのは現地へ行ったファン・ギョンセのもとに、焼け焦げたテギョンの荷物が届いたということだけ。
ミニョの前では口にしないがテギョンはもうこの世にはいない可能性が高いとシヌは思っていた。それはシヌだけではなく他のメンバーも思っていたこと。
ミニョの受けるショックの大きさを考えると、今まで何となくごまかしてきたが、相変わらずぬいぐるみをオッパと呼び話しかけている姿を見て、いつまでもこのままにしてはおけないとシヌは心を決めた。
コンコンコン。
テギョンの部屋をノックする。
「はーい」
ドアを開けたミニョの背中越しに、椅子に座っているテジトッキが見えた。
「ちょっと話があるんだけど・・・中、いいかな」
「はい、どうぞ」
ミニョの笑顔にシヌの心はザワザワと不快な音を立てた。
この間までミニョの笑顔には陰りがあった。みんなの前では元気に振る舞っていても、一人になると不安で落ち着きがなくなっている様子を何度か見ていた。しかしその不安定な感じは今では見られず、いつ見かけても楽しそうな表情ばかり。
テジトッキを連れ歩くようになってからミニョは変わった。でもそれはシヌの目には現実を受け入れることができず、自分で作り上げた世界に閉じこもっているようにしか見えなかった。
「ミニョ、そのぬいぐるみのことなんだけど・・・」
「もしかして、シヌさんにもオッパの声が聞こえるんですか!?」
「違うよミニョ、俺にはテギョンの声は聞こえない、みんなにもテギョンの声は聞こえない、そして本当はミニョにもテギョンの声は聞こえてない」
純粋な瞳は、どういうことですか?と疑問を表しているように見え、シヌは続けた。
「それはテギョンじゃない、ミニョがテギョンだと思いこんでるだけだ。傷ついたミニョの心がそのぬいぐるみをテギョンの身代わりにしてるだけだ」
「違います、この子は本当にオッパなんです」
テジトッキを胸に抱きしめ強い瞳で言い切るミニョを見て、シヌはどう説明したらいいのかと頭を悩ませた。
「ミニョ・・・テギョンが飛行機事故に遭ったのは判るよね」
「はい」
「ニュースで墜落現場を見ただろ、あの悲惨な現場を。あれからもう一か月、生きてたという連絡はない。テギョンはきっと、もう・・・この世にはいない」
ミニョの瞳に動揺の色が見えた。テギョンの死を理解すればそこにいるのはただのぬいぐるみだということに気づき、今の状況を受け入れるだろうとシヌは思った。
「それにテギョンは人間だ、ミニョが抱いてるのはぬいぐるみだろ、それは判ってるんだろ」
「判ってます・・・・・・でも、この子は本当にオッパなんです。身体はぬいぐるみですけど中身はオッパなんです」
いくらミニョがそう言い張ってもシヌにテギョンの声が聞こえなければそれを理解するのは難しい。
シヌの困ったような表情に、今度はミニョがどうしたら判ってもらえるのかと頭を悩ませた。
「はぁ・・・俺はミニョがそのぬいぐるみをテギョンとして扱ってる姿を見るのが苦しいんだ。痛々しくて見てられない」
「だったら・・・私ここを出て行きます。もともとただの居候ですから。そしたらシヌさんも私を見なくてすむでしょ」
「そういうことを言ってるんじゃない、俺はミニョに現実を見てほしいと言ってるんだ。テギョンのことを思い出すのはいい、でもミニョが今抱いてるのはただのぬいぐるみで、テギョンじゃない」
「この子はオッパです。私にしか声が聞こえなくても、人間じゃなくても、オッパなんです」
二人の話し合いはずっと平行線のままで終わり、シヌは頭を悩ませたままテギョンの部屋を後にした。
その日の深夜。
仕事から帰ってきたジェルミがあくびをしながら自室へ入ろうとした時、テギョンの部屋の閉まりかけたドアに吸いこまれるように人影が消えたのが見えた。
「あれ?・・・シヌヒョン?・・・なわけないよな、こんな遅い時間に。あー疲れた、早く寝よっと」
一瞬シヌに見えたような気がしたが、こんな夜中にミニョの寝ている部屋へ入るわけがないと、特に気にしなかった。