音楽で溢れている夜とは違い、昼間のジャズバーはその静けさがもの寂しさを感じさせる。ステージに残されたピアノやドラムは、自分を奏でてくれる相手を黙って待ち続けているようだった。
誰もいない店内。砂ぼこりの残る木の床を、コツコツと靴の踵が鳴らす。
幾つかあるテーブルのうち、まるでそこがいつもの定位置であるかのように、テギョンは何の迷いもなく真っ直ぐにステージ前のテーブルへ向かった。
「いつも早いのね。」
テギョンが手に提げていた箱をテーブルに置くのとほぼ同時に、奥から姿を現した髪の長い人物 ―― エマが声をかけた。
「時間に遅れるのは嫌いだからな。」
「そんなこと言って・・・ホントは少しでも早く私に会いたかったくせに。」
エマは判ってるわよと含んだ笑いを浮かべると、ブロンドの髪をなびかせながらテギョンに駆け寄りそのまま抱きつこうと腕を伸ばす。
テギョンは突進してくる相手をひょいとかわしながら、テーブルに置いた箱を掴み、俺に触ったらコレを床に落とすぞと脅した。
「落として悲しむのはロイだと思うけど。判ったわよ、触らないから、それちょうだい。切ってくるわ。」
エマは拗ねたように口を尖らせ箱を受け取ると、くるりと向きを変え店の奥へと消えて行った。
ここへ初めて来た日、テギョンはロイのピアノを聴き、彼にジャズを教えて欲しいと頼んだ。アドバイスくらいならとOKをもらい、開店前の店に通い始めたが、それを聞きつけたエマが面白そうと顔を出した。
セリの言っていた通り、エマはひと目でテギョンを気に入り、それ以来毎日やって来る。
「私テギョンにすっごく興味があるの。」
「俺はない。」
「今度デートしましょ。テギョンのこと、もっと知りたいわ。」
「断る。俺は結婚してる、それ以上のことは知らなくていい。」
「そういう冷たい態度、そそるわ~」
邪険にしても全く動じないどころか、逆に「燃えるわ!」と妙な意欲を見せ、ぐいぐいと迫ってくるエマ。甘い物が好きだというロイに買ってくるケーキを一緒に食べている時だけはおとなしくしている為、エマ対策としてテギョンは毎日違うケーキを買ってくるハメになった。
「俺はロイに買ってきてるのに、どうして先に食べようとするんだ。」
「どうせ私のお腹にも入るんだから、いつ食べても一緒でしょ。」
悪びれる様子もなく、切り分けたケーキを1ピース皿に乗せ、エマはさっそくフォークを突き刺した。
この後、いつもならそのフォークをテギョンの口へ近づけ、
「はい、あーん♪」
「何が、あーん、だ」
「いいじゃない、食べさせてあ・げ・る♪」
「いらん!」
近づくフォークに、眉間にしわを寄せテギョンが顔を背ける、といった遣り取りがされるのだが、今日はエマがフォークをテギョンの口へ近づけている途中で、ピタリとその手を止めた。そして驚いたように長いまつげを2、3度パチパチと瞬かせ、紅い唇の両端をゆっくりと上げた。
「ごめんなさい、今日はお店お休みなの。それに今、彼とすごーく大切な時間を過ごしてるの、二人っきりで。だから悪いんだけど、邪魔しないで出てってくれないかしら。」
言葉尻は相手にお願いをしているが、目は冷ややかで命令をしているような威圧感がある。
ハスキーな甘い声でニッコリと笑うその顔は、テギョンを通り越し、その後ろに向けられていた。
いつもならそろそろロイが来る頃。
背後で感じた人の気配をロイだと思ったテギョンは、何バカなことを言ってるんだとあきれた顔で振り向いた。
「ミニョ!」
「オッパ、もしかして・・・その人が、電話の相手・・・ですか?」
後ろに立っていたのはロイではなく、顔を強張らせているミニョだった。
「彼、私に夢中でまいっちゃうわ。毎日会いに来るのよ、私の好きなケーキ持って。」
ほら、おいしそうでしょうと、にこやかにエマが言う。
「テギョンのファン?サインと握手してもらったらさっさと帰ってね。」
エマはテギョンに腕を絡ませ、じたばたと暴れる肩に甘えるように頭をのせた。
目の前の光景にショックと戸惑いの表情を浮かべるミニョを、楽しそうに見ているエマ。
テギョンはその二人の顔を交互に見、ミニョがどんな関係にある人物なのかエマが理解していると判断すると、わざとやってるなと、くっついている腕を強く振り払った。
「ミニョ、こいつのことは気にするな。俺をからかって遊んでるだけだ。」
「遊びだなんてひどいわ、私は本気なのに。」
再び腕を掴んだエマはテギョンを引っ張ると素早く顔を近づけ、テギョンの唇に紅い唇を押しつけた。
とっさの出来事に一瞬固まりかけたテギョンだが、エマを突き放し唇から逃れると、手の甲でごしごしと自身の口を拭う。
ミニョは声も出せず立ち尽くしたまま。
そこへ新たな人物 ―― ロイが現れた。
見せつけるようにテギョンにへばりつくエマと、口の横を紅く汚し焦るテギョン。それを呆然と見ている見知らぬ女。
目の前の光景に、ロイはテギョンへ耳打ちした。
「もしかして、修羅場か?」
しかしその声には、あきらかにテギョンをからかって楽しんでいるという色が含まれていて。
「冗談はやめてくれ、エマは男だろ、俺にそっちの趣味はない。エマ、暇だからってミニョを巻き込んで俺で遊ぶな!」
「あは、ごめんなさ~い。」
テギョンの怒声に本気を感じ取ったエマはそろりとテギョンから手を離す。
苦々しい顔でエマを睨んだテギョンは今日は帰るとロイに告げ、ミニョの手を掴み店を出た。
「面白いものが見られたわ」と微笑むカトリーヌの前を通って。
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