「すみません、びっくりしちゃって、もう大丈夫ですから。」
マンションの前で。自分を落ち着かせようと何度か深い呼吸をくり返したミニョは、シヌの腕からそっと離れた。そして落ちているバッグを拾おうと足を踏み出し、痛っと小さな声を上げ顔を歪めた。
ひったくりにバッグを取られまいと抵抗している時に怪我をしたのだろう。膝から血が流れている。
「俺が拾うから、ミニョはじっとしてて。」
シヌが落ちていたバッグと散乱してしまった中身を拾い集めた。
「これはちょっとヤバいかも。」
道路脇の大きな水たまりに落ちていた水のしたたる携帯を拾い上げ、苦笑いを浮かべる。
「すみません、ありがとうございました。」
それらをシヌから受け取るとミニョは大きく頭を下げエントランスへ歩き出したが、片足を少し引きずるような仕種にシヌがミニョの腕を取った。
「つかまって。」
ミニョの身体を支えるように歩き、エレベーターに乗る。
「早くテギョンが帰って来るといいんだが・・・今日も遅いんだろ?」
「今日は沖縄に行ってるんで、帰りは明日なんです。」
ミニョの身体はさっきの出来事のショックでまだ少し震えていた。
エレベーターを降り、家までの数メートルをミニョが何度も後ろを気にしながら歩いているのを見て、今はまだ一人にしない方がいいと思ったシヌは、コーヒーを一杯飲ませてくれないかと部屋へ上がり込んだ。
「すぐコーヒー淹れますね。」
「その前にまず怪我の手当てしないと。」
ミニョをソファーに座らせ血の出ている膝にガーゼを当てたシヌは、ミニョの代わりにコーヒーを淹れはじめた。
「犯人の顔とか憶えてる?」
「薄暗かったしビックリしちゃって、帽子被ってたことくらいしか・・・落ち着いたら思い出せるかも。」
「俺のとこからじゃはっきり見えなかったしな。」
シヌの淹れてくれたコーヒーを飲むと、ミニョの青かった顔色がだいぶ赤みをさしてきた。
「テギョンには俺から連絡するよ。」
ミニョの携帯は水たまりに浸かってしまったせいか電源が入らない。シヌが自分の携帯を取り出すと、待ってくださいとミニョはその手を止めた。
「余計な心配かけたくないんです。明日朝早いって言ってたし・・・帰って来てから話します。」
本当はテギョンの声が聞きたかった。もう大丈夫だと思っても、さっき後ろからいきなりぶつかられ、バッグをひったくられそうになったことが身体に受けた痛みと共に、心にも強い衝撃となって残っている。
傍にいて欲しかった。
怖かっただろう、もう大丈夫だと優しく抱きしめて欲しかった。
でもテギョンがいるのは沖縄。
心細い思いを抱えたまま、ミニョはシヌへ笑顔を向けた。
「じゃあ俺はそろそろ帰るよ。」
カップを置いたシヌはソファーから立ち上がった。
ミニョと一緒にコーヒーを飲んでいるのに、合宿所と違って何だか落ち着かない。初めて来た場所だからかと思ったが、違うということは判っていた。
ここがテギョンとミニョの家だから。
二人の生活の場所。
二人だけの空間。
合宿所とは違い、ここは二人の匂いしかしない。
そんな場所に長居はできない。
「テギョンの留守に俺が上がり込んだなんて知ったらあいつ、相当怒るだろうな。」
「そんな・・・シヌさんは怪我をした私をここまで連れてきてくださったんです。怒る理由がありません。」
「理由なら立派にあるよ。俺が今この場所にミニョと二人きりでいる、それが理由だ。」
あいつはいつまでたっても焼きもちやきだからなとシヌはため息まじりに小さく笑う。もっとも、もしも同じ立場なら俺もあまりいい気分じゃないが、と心の中で呟きながら。
「俺がここに来たことはテギョンには言わない方がいいかもな。俺はミニョを車で送ってきて、ひったくりを目撃しただけってことにしといた方がテギョンの機嫌を損ねないだろう。」
シヌに他意はなかった。ミニョがテギョンに文句を言われないよう回避しただけ。
それでも、ミニョとの間に二人だけの秘密ができたようで、心の片隅で喜んでいる自分に気づくとシヌはフッと笑みを漏らす。
「じゃあね、ゆっくり休んで。」
「はい、ありがとうございました。」
玄関のドアを大きく開け、ミニョは笑顔でシヌを見送った。
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