その日メンバー四人で音楽番組の収録と雑誌の取材を終えた後、何の予定もなかったテギョンは一人先に合宿所に帰って来た。
予定よりかなり早く終わったが、ミニョには連絡を入れず急いで帰って来た。今日もカトリーヌが来てミニョに歌の指導をしているはずだ。誤解は解けたがやはり気になってしまう。
カトリーヌのことはクラシックをやっていたということしか判っていない。
― カトリーヌ・ジョーンズ・・・聞いたことのない名前だが、ミニョの歌を聴いている限りでは指導者としては優秀のようだ。
テギョンは玄関を入るとそのまま練習室へ行く為、地下への階段を下りていった。
練習室の大きな窓からカトリーヌの背中が見える。テギョンはドアノブに手をかけるとゆっくりとドアを開けた。
部屋中に広がる柔らかく美しい声。
いつもと変わらない練習室の中が、光の粒で満たされているように輝いて見えた。
優艶な声は薄氷を陽の光にあてたようにキラキラと輝き、ゆっくり、ゆっくりと融けていき心の中に染み渡る。
テギョンは息を呑むとその場に立ちつくし、歌が終わっても全く動けなかった。
「あ、テギョンさん、お帰りなさい。お仕事早く終わったんですか?」
カトリーヌが歌い終わり、部屋の奥にいたミニョがドアのところに立っているテギョンに気が付き声をかける。
「あっ・・・」
カトリーヌはミニョの言葉に振り返り、テギョンの顔を見て口に手を当てた。
「・・・カトリーヌさん・・・いや、俺の・・・記憶が・・・俺の耳が・・・確かなら・・・キャサリン・ロットさん・・・ですか?」
テギョンが表情を硬くしたままカトリーヌをじっと見つめ、自分の記憶を手繰るように一つずつ言葉を口にする。
「ああ、やっぱり・・・バレちゃったのね・・・」
カトリーヌはテギョンが自分の方を見て目を見開いている顔を見た瞬間、しまったと思った。あの顔は何かを知っている顔だ。
「何故キャサリンさんがこんなところに・・・いや、何故カトリーヌという名前でここに・・・」
テギョンは呆然として首を傾げながらブツブツと呟いている。
「あまり知られたくなかったんだけど・・・」
カトリーヌはため息をつく。
ミニョは目の前で交わされる二人の会話についていけず、二人の顔を交互に見てしきりに首を捻っている。
「あ、あの、キャサリンさんとか、バレちゃったとか、一体何なんですか?」
○ ○ ○
「えーっと、何から話したらいいかしら・・・って、そんな大した話でもないんだけど。」
場所を変えてリビングで話すことにした三人。
「そうですか?俺は世界的に有名なソプラノ歌手、キャサリン・ロットさんがこんなところに、しかもカトリーヌという名前で、ミニョに歌を教えているというだけで、大したことだと思いますけど。」
カトリーヌとテーブルを挟んだ向かい側に座っているテギョンが腕組みをしながらじっとカトリーヌを見ている。
「あの、どういうことですか?」
紅茶を運んできたミニョがテーブルにカップを置き、テギョンの横へ座りながら二人の顔を見た。
「彼女はキャサリン・ロットというイギリスの有名なソプラノ歌手だ。といっても俺は何度か歌を聴いたことがあるだけで、顔は知らなかった。だがあの声は憶えている・・・いや、忘れられないと言ってもいいくらいだ・・・」
テギョンは練習室でのカトリーヌの歌声を思い出しているのか目を瞑っている。
「じゃあ、カトリーヌという名前は嘘なんですか?」
ミニョがカトリーヌをじっと見つめながら聞いた。
「嘘ではないわ。 『Catherine』 英語ではキャサリンと読むけど、フランス語ではカトリーヌと読むの。私の祖母がフランス人で、よく私のことをカトリーヌと呼んでいたわ。歌っていた頃はキャサリンだったけど、歌えなくなってからは、自分から名乗る時はカトリーヌの方を使っているの。」
カトリーヌでありながら、キャサリンという名前だということに首を捻るミニョに説明をする。
「綴りも変わってくるわよ、ドイツ語だと 『Catalina』 カタリーナ、ロシア語だと 『Ekaterina』 エカテリーナ。ミニョだって、 『コ・ミニョ』 と書いたり 『高美女』 と書いたりするでしょ。それと同じだと思えばいいわ。」
カトリーヌは口元に笑みを浮かべながら紅茶の入ったカップを口にする。
「キャサリンとカトリーヌという名前が同じだということは判りました。では、ロットとジョーンズは?俺が知っている歌手の名前は、キャサリン・ロットです。でもあなたはカトリーヌ・ジョーンズと名乗っている。」
「結婚したから。」
「結婚!?」
「ええ、キャサリン・ロットは結婚してキャサリン・ジョーンズになった・・・知っている人はほとんどいないと思うわ。歌わなくなってからのことだから・・・」
フッと寂しそうな表情をする。
「ロットのままでもよかったんだけど、キャサリン・ロットは歌えなくなった時に私の中では死んでしまったから・・・それに私は夫の姓を名乗りたかった。キャサリン・ジョーンズになりたかったの・・・」
「どうして結婚していることを教えてくれなかったんですか、知っていたら俺だってあんなには・・・」
テギョンはカトリーヌが既婚者だと知っていれば、あれ程まで嫉妬しなかったのではと思うと、テーブルに肘をつき頭を抱えた。
「だって、聞かれなかったから。」
そんなテギョンの苦悩を知らないカトリーヌはさらっと答える。
「カトリーヌさんって、色々謎の多い人だとは思ってましたが、結婚していて、有名なソプラノ歌手だったなんて凄いですね。」
呑気な声でミニョが言う。
「ミニョ、そんなに気楽に言うな。お前はカトリーヌさんから何か言われなかったのか?」
テギョンはカトリーヌの泊まっているホテルへ行った時、ミニョと一緒に歌いたいと言うカトリーヌの言葉を聞いている。その時はそれ程深くは考えていなかった。無名のプロがミニョと歌うと言っても大したことはないと思っていた。オペラではなく歌曲だと言っていた。小さなホールで歌うだけだろうと高を括っていたが、キャサリン・ロットとなると話は別だ。二千席はあるコンサートホールでもあっという間にチケットは完売になるだろう。そんな人がミニョと一緒に歌を歌いたいと言っている。
テギョンの心境は複雑だった。ミニョの歌が評価されたのは嬉しい。だが、キャサリン・ロットと一緒に歌うとなると世界中へ行くことになるだろう。韓国には、自分の傍にはいられない。
「いやそれよりもまずは、 『天使の糧』 だ。」
テギョンは考えれば考えるほど不安になる心を誤魔化すように、 『天使の糧』 を口にする。
テギョンの言葉にミニョとカトリーヌは顔を見合わせて微笑み合うと、ミニョは立ち上がりテギョンの腕を引っ張った。
「テギョンさん、練習室に来て下さい。」
カトリーヌをリビングに残し、二人だけで階段を下りていった。
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