天皇家は朝鮮半島から渡って来た(前編) | 明日への飛翔

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NHK教育テレビ2019年3月24日放送『サイエンスZERO 日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明』から下記に一部抜粋します。

 

鳥取県『青谷上寺地遺跡』から発掘された弥生人32人のミトコンドリアDNA分析から次の事が分かりました。

32体のうち縄文系のDNAは1体のみです。

残り31体のDNAは渡来系でした。

 

DNA分析からシベリアや中央アジア・東南アジア・中国・朝鮮半島から多数の渡来人が朝鮮半島を経由して日本に渡って来たことが分かります。

青谷上寺地遺跡で発掘された骨から、放射性炭素年代測定法により正確な年代も分かるようになりました。

測定の結果『青谷上寺地遺跡』の骨は2世紀のものと分かりました。

15年前に、福岡県の安徳台遺跡から豪族の女性の骨が発掘されました。

この女性は副葬品から権力者の妻とされ、DNA分析から縄文系と分かりました。この事から渡来人の王は、縄文人を妻にしていたことが分かります。

核DNA分析から、福岡・弥生人や現代日本人の遺伝子が韓国人に近く、縄文人に遠いことも明確に分かりました。 韓国人は北京中国人に近い遺伝子です。

(NHK・Eテレ サイエンスZEROからの引用を終わります)

 

これらのことからも、天皇家一族が朝鮮半島から日本に渡ってきたことが明らかに分かります。

それでは、いつ頃、何処から天皇家が来たのかを以下に述べていきます。

時代背景と比べるために天皇一族の動きを西暦の年代で表している部分もありますが、古代のことであり、正確な年代ではないことをご理解ください。

天皇家の祖先は、中国大陸の満州の北部、黒龍江省の松花江流域に建国したツングース系騎馬民族・夫余の系統の民族が祖先と考えられます。

天皇一族の祖先は東北アジア・朝鮮半島を支配して、先祖である百済の一派が後に北九州に入り、さらに畿内まで入って来て、日本列島を統一しました。

中国黒龍江省⇒高句麗⇒馬韓⇒弁韓⇒狗邪⇒北九州 倭(わ)日本に渡る。

『三国志』の「魏書」東夷伝に、辰王朝については三韓の時代、馬韓の月氏国に都を置き、馬韓・辰韓・弁韓・弁辰など大半を辰王が領していたとあります。

馬韓の諸邑落国家が統一されて百済国になったとき、百済王家となったものが姓を(夫)余と称し、その先祖が中国東北地区にいた夫余で、高句麗と同族でした。

倭(日本)の北九州に到達した天皇家の御里は、朝鮮半島の百済と言えます。

 

〇AD391年 日本は朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦うが撤退した。

 

〇AD663年 白村江(はくすきのえ)の戦 天智天皇(中大兄皇子)、日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との戦い。

      目的=百済を復興するため。

      日本は兵士1万人を失い、船4百艘と馬1千頭を失い敗退する。

 

天皇一族は、古代から百済を度々助け、戦までしています。

天皇家と百済は親戚で、血縁で結ばれています。

天皇家は大正時代に朝鮮とより濃く血縁を結びました。

 

 李 方子(り まさこ、朝鮮語: 이 방자〈イ・バンジャ〉、1901年(明治34年)11月4日~1989年4月30日)は、日本の元皇族であった。

梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠と大正9年4月28日に結婚して妃となった。

このように朝鮮国と日本国は天皇制では親戚縁者でした。

 

平成天皇(明仁天皇)は2001年の記者会見で『桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じます』と説明しており、テレビで放映されています。

 

紀元前(BC)500年頃、弥生人が朝鮮半島から船で北九州に渡って来ます。

縄文時代から弥生時代への過渡期です。

その当時の船は、大きな丸木舟だったと思われます。

5~6名ほどの乗船ではなかったでしょうか。

古墳時代後期になり船が少し大きくなります。

(下は古墳時代後期の埴輪)

魏志倭人伝に、紀元3世紀頃の倭国に牛・馬は居なかったという記録もあります。

上は現代に試作された古代の船で、12名ほどの乗船ではないでしょうか。

1名65㎏として12名で780㎏以上は積めたと思われます。

日本古来の馬はモンゴル原産と言われております。

体高(地上から肩までの高さ)120㎝くらいで、体重は350㎏ほどでしょう。

丸木舟に馬を載せることは不可能です。

 

AD600年古墳時代後期の丸木の船底に木枠で側板を取り付けた構造船に馬を載せたとき、人間の漕ぎ手は4~5名に限られてくると思われます。

この場合、漕ぎ手の推進力は不足しますから、別の1~2艘の漕ぎ手だけの船が綱で、馬を積んだ船を曳航したと思われます。

成馬を載せることは大変で、仔馬を北九州へ運び育てたと推察できます。

このため馬の海上輸送は船と人数と費用と時間がかかる為に、古代日本において馬は大変な希少価値だったと思われます。

馬具が遺跡から確認されたのはAD390年頃(紀元4世紀末)です。

四条畷(しじょうなわて)市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、うち1頭はていねいに板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品(埴輪)やミニチュアの人形などが出土しています。この時代は、馬を祭祀用に葬った事が推定できます。

 

〇元寇(げんこう)AD1274年と1281年(13世紀後期)に、モンゴル帝国及びその属国の高麗が九州北部に侵攻した。 蒙古襲来。 皇帝クビライ。

軍船8800隻。兵士17万5千人。水夫3万人。 日本が勝利しました。

確認されているモンゴル軍の船舶は古墳時代後期の船に比べて大型で、人と荷物を沢山載せられるが、大量の馬を乗せて来ませんでした。

モンゴル軍騎馬兵は兵士の17パーセントといわれ、兵士300人に馬1頭の割合だったという記述もあります。

13世紀の船の大型化でも馬の輸送は大変でしたので、3世紀~6世紀の古墳時代に朝鮮半島から北九州に馬を運ぶのは、非常に難しい仕事だったといえます。

 

5世紀後期から6世紀後期にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から馬の骨の出土例が31を数えています。 この事から、日本国内で馬が騎馬戦の戦闘に使われ始めたのは、5世紀後期になってからと考えられます。

 

これらの事から日本進出の時に、天皇一族はツングース系騎馬民族の祖先をもつが、朝鮮半島の弁韓、狗邪からは、家族や兵員・物資を船で北九州に運んだが、騎馬兵としての馬は運ばなかったのではないでしょうか。

その主な原因は、船が小さいので乗せられる人員や載貨が少なかった為です。

 

天皇一族は北九州に渡った後に畿内に侵攻しながら馬の産出に努めたが、5世紀までは騎馬隊による戦闘はなく、馬はもっぱら祭祀に用い、大切に保存したものと思われます。

 

北方騎馬民族の軍勢が軍馬を率いて海を渡り、日本に侵攻し、数千の騎馬兵士の大部隊が、日本の国土の弥生時代からの土着の豪族たちを蹴散らせて、日本を支配した征服王朝である、との説は無理な所があると考えられます。

 

 

 

天皇家が朝鮮半島から渡って来たとするこの説は江上波夫先生の説の多くを支持するものです。
江上波夫先生は東京大学教授・上智大学教授・札幌大学教授を歴任した文化勲章受章者です。
著書に『ユウラシア古代北方文化』 『騎馬民族国家』などが有ります。

 

 

 

※天皇一族が朝鮮半島から北九州に渡り、畿内に侵攻するのは【天皇家は朝鮮半島から渡って来た(後編)】に続きます。ご覧ください。

URL https://ameblo.jp/frying-dutchman/entry-12492480910.html