一つのこともできないのに20のことをやろうとすることはおろかだと思われています。
そうでしょうか。
身を守るのに目の前の敵を一人倒すのと、敵が攻めてくる理由である戦争を終わらせることとの違いに似ています。一問題活動に取り組んで勝っても勝たなくても、また次の問題が起こります。それをそもそもこちらが主権を握ってしまえば、もう問題は起きないであろう。
少なくとも一問題解決のためにいちいちその都度団結し、活動し、成功するかどうかわからないことのために取り組む必要もなくなります。
農業基本法改正の問題においてもそうですね。
どうして自分たちはいつまでも無力な立場の一市民としてしか活動しようとしないのでしょうか。これはある種の高度な論理学の問題であると思います。端で活動するのではなく、元を取る。そういう戦法です。
黒田官兵衛はいちいち敵を一人ずつうちとっていると味方に損害は免れないので、
城の周りを全部策で囲って兵糧攻めにしてしまえば一人の犠牲もなく敵を滅ぼすことができる
といって飢え死にさせて皆殺しにしてしまいました。恐ろしいですね。
その次はこれまた孫氏の兵法に書いてある通りのやり方で、湿地の要害に立っている高松城を水攻めにしました。有名な備中高松城水攻めです。
端を見ないで、元を取ろうとするやり方はこういうことです。
ある種の論理学です。
闘争や戦闘行為というものを一対一の対立行為と考えるのではなく、全体の現象として見る。
そうしたら敵兵や軍隊というものは人間なのであるから兵糧を断てば動けなくなる。
湿地や川が周りを取り囲んでいて近づけないのなら、城を水浸しにして城から出られなくすればよい、戦いとはなにか、敵兵とは何か、ということを観念的に考えていくわけです。
一対一で武勇で戦わなくても勝ててしまうということになります。
つねに個別状態の一市民のままで、レプリンコワク問題、神宮並木伐採問題、リニア水源問題、農業基本法改正問題にその都度対応していくことは労多くして益少なしです。
このことを自分は20年前から提唱しているのですがあまりわかってもらえませんでした。
もっとも、広く人々に主張したかどうかはやっていたとは言えない。
それを主張するかどうか、相手に聞いてもらえるかどうかの探りだけして、効いてもらえる相手を見つけることはできないまま終わったというのが真相です。
15年前の仲間たちは今でも活動している人もいて、中にはだいぶ立場が変わった人もいます。残念ながら亡くなってしまった人たちもいます。それはそうです。15年というときの隔たりは大きい。
また農業基本法改正反対のために署名しなきゃいけないのか、
またレプリンコ反対のために集会やデモしなきゃいけないのか、
環境の悲観論の2022はそう思ってしまいます。
この活動、それでは結局一つも成就しないであろうな。
2024 3.1記 3.19追記