トゥルースの心の薬箱 -3ページ目

トゥルースの心の薬箱

身動きのとれないあなたへ送るメッセージ。未来へ向かうための心のクスリになることを願っています。

「最近のいじめは陰湿だ! 昔はこんなことはなかった!」などと聞くことがある。

さて、本当にそうか?

「相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的とする」のが、【いじめ】であるならば...。

陰湿でない【いじめ】などは存在しない。

時代が違えば、道具立てや方法が変わることはあるかもしれない、だから、その変化と社会背景などを研究することは大切だ。過去と現在を比べることも 意味があるだろう。

けれども、いつの時代でも、いじめは、とても陰湿な行為であって、被害を受ける当事者にとっては、耐えがたい行為であることに変わりはない。

おそらく、人類が誕生してから、現在まで、いじめが存在しなかった時代はなかっただろう。

私は、いじめを無くすことは不可能だと思っている。
だからといって、いじめを無くす努力をする必要がないと言っているのではない。

無くならないものを、無くそうとする、一見、無駄な努力を根気強く続けることで、最悪の結果を防ぐことができると考えている。

だが、無くすことが不可能であるのなら、どう対処するかを考えることの方が、もっと重要だろう。

一般的にいじめの舞台となるのは、学校の現場。しかし、学校に限らず、集団で活動する現場では、どこでも、いじめが発生する可能性がある。職場、町内、国内...国際社会、人々が集団で活動すれば、その集団内であるいは他の集団との関係の中で、いじめが発生するだろう。

だから、いじめは子供だけの問題ではなく、誰にでも関係があることであり、他人事ではない。

被害者がいじめに耐えきれなくなった時、最悪の場合は、自らの命を絶ったり、相手の命を奪ったりする。また、直接は無関係の人々に危害を加える場合もある。

辛さに耐えることができず、解決方法が見いだせない被害者は、行き場を失うのだろう。

その【行き場を失う】ということが、最悪の結末を引き起こす。

あなたは、むやみに人を追い詰めたりしたことはないだろうか?

明らかに、追い詰められなければならない人たちは存在する。
しかし、日常生活の中で、絶対的に追い詰められるべき人というのは、そんなに多くはいないだろう。

企業や国際関係の場合でも、通常は駆け引きをしながら、落とし所を探ったり、仲介者を探したりして、お互いを完全に追い詰めることはしない。

土砂降りの中で、遠い目的地を目指して、傘もささずに歩き続けると、途中で、くじけてしまうかもしれない。

でも、途中で誰かが、雨宿りのために軒下を貸してくれたりすれば...なんとか、目的地までくじけずに辿りつけるのではないか?

追い詰められた状況の中でも、隠れ家や休憩所のような存在になってくれる人がまわりにいれば、完全に追い詰められることはない。

いじめがあったとしても、孤立することさえなければ、なんとかしのげるのではないか?

いじめをなくすことはできないけれど、最悪の結末を避けることはできる。

先ず、あなたが、いじめられている人や追い詰められている人の雨宿りの場所になってあげるればいい。

きっと、そんなに難しいことではないと思う。


【いじめ】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/11/09 12:19 UTC 版)
いじめ(苛め、虐め、英: Bullying)とは、相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的として行われるさまざまな行為であり、実効的に遂行 された嗜虐的関与[1]。

[1] 内藤朝雄「いじめの社会理論」

①あなたを楽しい気分にさせてくれる人


あるいは...


②あなたをほっとさせてくれる人


身近にそんな人がいますか?


まわりにそんな人がたくさんいれば、辛いことがたくさんあっても、やり過ごしていけることでしょう。

どちらのタイプの人々も、あなたにとって重要な人々...


それでは、もし、あなたがどこかへ旅をすることになった時に、誰か一人を連れていくとしたなら、どちらのタイプの人を連れていきますか?


ちょっと目をつぶって、その道中を想像してみてください。


.........


答えがでましたか?



トルゥースなりに考えてみると


①のタイプの人は

あなたの、それまでの気分がマイナス(-)状態かプラス(+)状態かに関わらず、あなたの気分を最高のプラス(+)状態に持ち上げてくれる人...


②のタイプの人は

あなたのがマイナス(-)状態で暗く沈んでいる時に、最低でもプラスマイナスゼロの状態にまで押し戻してくれる人...


ではないかと思います。


ほっとさせくれる人が、その真価を発揮するのは、あなたが、とても落ち込んでいる時でしょう。

一方、楽しい気分にさせてくれる人は、どんな時でも、あなたを楽しい気分にさせくれます。


だから、たぶん、楽しい気分にさせてくれる人を、旅の道連れに選んだ人が多かったのではないでしょうか?


楽しい気分にさせくれるということは、たぶん、相手も楽しい気分でいるということ。

同じことを楽しいと感じることができるということ。

分かち合うことができるということ。


もし、あなたが誰かと二人きりで旅をすることになった時は、旅に出る前に考えてみてください。


あなたは、その人と一緒にいて、ほっとするのか? それとも、楽しいのか?

その人は、あなたと一緒にいて、ほっとするのか? それとも、楽しいのか?

以前はまったく感動しなかったものに対して、ひどく心を動かされるようになった経験はないだろうか?


たとえば、昔のドラマ、流行った歌、小説等々!


くだらない作品が、いつの間にか感動を呼ぶ名作に生まれ変わるわけはない。

だから、もともと感動的なものだったにも関わらず、受け取る側が、それを感じ取ることができなかったということなのだろう。


そう言えば、小さい頃、母親が、ドラマを見ながら、よく涙をこぼしていた。なんで、こんな話で涙がでるのだろうと、不思議に思ったことが何度もある。


現実に悲しい場面に出くわせば、多くの人が涙を流すかもしれない。しかし、芝居や映画のように、原作が実話か創作であるかの違いはあるだろうが、そのもの自体はバーチャルなものに対して、心を動かされる、感動するというのは、受け手の想像力の豊かさに左右される。


逆に、うまく、受け手の想像力をかきたてる作品が万人に名作と評価されるのだろう。


ささいなことに感動できる人は、それまでの人生の中で、激しく心を揺さぶられる出来事を、そうではない人に比べて、より多く経験しているのだと思う。


それは、良い意味で激しい場合もあれば、悪い意味で激しい場合もあるだろう。


しかし、どちらにしても、強烈な体験は鋭敏な感受性を育てる。


鋭敏になった感受性をうまく取り扱う、てなづけることが出来れば、その人は豊かな感性を持った魅力的な人になるだろう。でも、その感受性の取り扱いを誤れば、嫌な人間になったり、世間を騒がすような人になるかも知れない。


感受性が鋭敏になり豊かな感性が育まれるということは、美しいものがよくわかるようになるだけでなく、同じように、醜いものもよく見えるようになることだと思う。


感性が豊かになれば成る程、美しいものがたくさん見えてくるだけでなく、多くの醜いものも見えてくる。

それは、外の世界に対してだけではなく、自分の内側に対しても...。


だから、感性を豊かにするということは、とてもつらい作業になるのかも知れない。


見えてしまった、自分の外側や内側にある、美しいモノと醜いモノとの狭間に身を置き、悩み、のたうち回る修行...


一度、始めたら、死ぬまで終わらせることの出来ない修行...。

そういうことなのだろうと思う。