祝福家庭を築く上で、まず最初に何が必要かと聞かれたらお金でも愛でもなく「信仰」だと断言する。そしてそれを二世達は解っていないとも断言する。自分自身が解って無かったからだ。
そもそも祝福結婚というのは特殊だ。
何がって、言わずもがなその日に会った人と結婚する事がだ。以前どこかの報道番組で合同結婚式が取り上げられた時も、VTRで新郎新婦に取材していた。
「おめでとうございます!あなたたちはいつ出会われたんですか?」
「昨日です!」
「は!?」
みたいなやり取りを見て、改めてその特殊性を実感した。親もそうだが、身近にいる家庭を見ても草創期の証を聞いてもその特殊性を超えて家庭を維持している事が本当に凄い事なんだと心底思う。
しかしその特殊性も近年は徐々に薄れているようで。
二世のそこそこの信仰心では、いきなりあった人と「家庭を持つ」なんて所までいく前に数多のつまずきで破局してしまう。一般的に考えたら気が合わなかったら別れるなんて事は至極当たり前の事で何も責められる事ではない。むしろ後々を思うと正しい賢い事だと褒められる事さえ往々にしてある。しかしこと「祝福」はそうはいかない。何せ生涯で付き合う相手は一人だけ。その為に純潔を守ってきた二世たちが、別れたその日から自ら背負うその十字架は簡単に消えるものではない。
だから「親同士で決めよう」「ちゃんと学歴も見ないと」「ピンとこなかったら断ってもいいよ」「あまり教会活動やってる子は嫌だなぁ」と自分に合う人を探し、より現実的に祝福が進むようにとされてきた。無論この変化はご父母様の恩賜によるものだ。祝福に対して自分で、家庭で責任を持つ。そのような時代になっている。
実際自分も親の仲介で今の相手に会った。しかしそれまでに結構断ったし断られもした。もちろん精誠を尽くして条件を立てた上で。他の人はどうか知らないが、自分は今まで会った人の顔は全部覚えている。だからふと、誰かと修練会や清平で会ったりしたら気まずいなぁと思ったりもする。自意識過剰か。
二世界隈なんていうこんな小さな村で断ったり断られたりしている事にちょっと何だかなぁと思う部分もあるが、結局、信仰的に言えば今自分に必要な人が、客観的に言えば身の丈に合った人が与えられ落ち着くのだと思う。
そんなこんなで、良いなと思った相手と約婚をし、それまで禁止だったデートなんてものもしたりして色んな所に行ったりして、はっきり言って盲目になっていた。これが恋愛現象というやつなのか。恋に恋するとは誰の言葉か知らないがよく言ったものだ。
上手くいってるなぁ。祝福って良いなぁ。そんな足浮きだった高揚感と今までの禁止条例に対する抑圧からの解放が祝福結婚に向かう原動力となっていた。それが悪い訳では無いと思う。ただ。
家庭を持って心底思うが、そんなものは結局いざという時何の役にも立ちはしなかった。