愛する想い。

ただそれだけでいいのに、
なぜそこに
怖れやら憎しみやら執着やら
副作用がもれなく付いてくるのか。




愛する快感が点ける光は
まぶしいくらいに
そこら中を照らすから
ときどき
愛されたいエゴの弱さもあぶり出す。






もうそれは
太陽が昇ると、同時に影も現れるように
やむを得ない自然の摂理みたいなもので、


だから
本題を見失いそうにさせる
まやかしのベールを祓って、祓って、
本質をすくい上げる術が必須となってくる。



たとえば
道教でも日本神道でも仏教でも
まず「みそぎ」から始まるように。
キリスト教では「洗礼」し
ざんげの告解から入っていくように。







純朴であれば、
愛する人に出会えた喜び、
それだけで人はわりと幸福になれる。




だけどもエゴが
「愛されたい、都合よく愛されたい、
愛されないなら愛するのを辞めたい」
なんて言い出して
悲しみを持て余し、不意に脆くもなる。



とはいえエゴが
「愛されたい、都合よく愛されたい、
愛されないなら、自分で自分を愛する」
なんて言い出して
悔しさを跳ね退け、怪力に強くもなる。





結局は、自分。
自分が自分の情念にどう薪をくべるか。
燃える炎にどのような信念をくべるか。

これは五行論の話。






特定した相手と
一緒に暮らしたり、連絡をかわしたり、
それだけが愛の証じゃない。

たとえ
相手と別れを選んだとしても、
現実には独り身であるとしても、

自分の中にある「愛する心」を
まんま自覚すること自体が、愛の証。







人には感情があるから
つい戸惑いもするし、
恨みもするし、迷いもするし、
それは別におかしいわけじゃない。

別におかしいわけじゃないから
みそぎ祓い・厄払い・浄化なんちゃら、
クリーニングの風習が存在する。

節分には豆をぶん投げたりしちゃう。






太陽が昇ると、同時に影も現れるように
やむを得ない自然の摂理みたいなもの。


あなたにそれを気づかせてくれた
あの人達は、まるで天使。







まやかしの闇エゴな不純物は
純な心に「愛する光」が確かにある証拠。

それを自覚させてくれる人と出会えた奇跡。

確かにある火種は、生きていく熱意を灯す。







もうそろそろ
迷子になってる場合じゃない、2024年。





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