いつかの頃に

天中殺の月の干合の日という

まさに「虚」のめぐりのときに

思いもよらない契約事を

与えられたことがありました。



一体どんな災難になるのか

それともどんな脚光があるのか

これは勉強になるな!と思って

実験で、あえて欲をかいて

その契約に乗ってみたんです。

理論の裏付けは、実験してみなきゃ
事実かどうか分からないからね。
でもふつうの人はしないでね。




結果は、面白いほどにそのままで。


何が残ったかというと「虚」。

その天中殺の2ヵ月間の有形は

きれいさっぱり空っぽ。

災難も脚光もただの「虚」に。

動転するよりも、実証した!と
身をもって感心したことを覚えています。




で、「虚」のめぐりは

何のために時折やってくるのか?

と考えていたのですけれど、


形に残らなくても
「経験値」は自分の中で確かに積まれる

とはハッキリいえます。


実像のある功績には

世の中に向けても栄えある教訓があり、

虚像の経験値には

自分にとっての不可欠な教訓がある。




有終の虚しさを知る出来事が

「自分に見合った生き方

に切り替えさせてくれたりするもので。

「虚」には「虚」の価値があります。





「虚」の経験は「虚」だから

最悪だったともいえるし

最高に楽しかったともいえるのですが、

その経験がなかったら

ずっとボタンをかけ違えていた

とは、間違いなくいえる。


「虚」のおかげで「実」を知れる。




めぐってくるサイクルも長さも

絶妙にちょうど良くて、

自然の法則はすべて「ギフト」。


ポジティブ論でもネガティブ論でもなく
日々、実験する中でそう思います。