天中殺の過ごし方

無だから無






天中殺期間の過ごし方の
真髄はね



















“無” 







“無” の期間なのだから
“無” なのです!



・・・




「あえて○○しよう」
って考える時点で
“無”じゃないよ。



「あえて○○しない」
って考える時点で
“無” じゃないよ。



(あえての判断に関しては
入る前に調整の機会がある)





“無” とは “中庸” 





さらさらと
川の流れのごとく
過ごせばよろし。

その流れの中で
始まりがあれば始まるし
頼まれたら動き回るし
暇になれば寝る。


あーしなきゃ、こーしなきゃ
というコントロール意欲を出すと
中庸ではなく片寄りが生じる。




    



本

中庸こそ
「無」の真髄であります。

中庸は 後天天中殺を
超越できる最大の武器となります。


もし財力が欲しい
と思えば
自分の心が財力に片寄り、


財力はいりません
と思えば
その反対側に片寄ります。



あるがままに財が入れば
受ければよい。
入らなければ
追わなければよい。

入る入らないを
気にかけては
中庸が保てません。



( 「天中殺宿命編」より )





通常時から
川の流れのように
さらさらと
生きている人にとっては
天中殺期間は
なんてことない。


だから
人間の心理的に
社会的責任がある人の方が
葛藤や摩擦が起こる
とされる。



↓図解にするとこう



希望を持つだけなら問題ない。
現実未来と精神結果に
こだわらなければ
なんてことない。


「受け身」のワードを
履き違えませんように!






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