天中殺の過ごし方
無だから無
天中殺期間の過ごし方の
真髄はね
“無”
“無” の期間なのだから
“無” なのです!
・・・
「あえて○○しよう」
↑
って考える時点で
“無”じゃないよ。
「あえて○○しない」
↑
って考える時点で
“無” じゃないよ。
(あえての判断に関しては
入る前に調整の機会がある)
▼
▼
“無” とは “中庸”
さらさらと
川の流れのごとく
過ごせばよろし。
その流れの中で
始まりがあれば始まるし
頼まれたら動き回るし
暇になれば寝る。
あーしなきゃ、こーしなきゃ
というコントロール意欲を出すと
中庸ではなく片寄りが生じる。
中庸こそ
「無」の真髄であります。
中庸は 後天天中殺を
超越できる最大の武器となります。
もし財力が欲しい
と思えば
自分の心が財力に片寄り、
財力はいりません
と思えば
その反対側に片寄ります。
あるがままに財が入れば
受ければよい。
入らなければ
追わなければよい。
入る入らないを
気にかけては
中庸が保てません。
( 「天中殺宿命編」より )
通常時から
川の流れのように
さらさらと
生きている人にとっては
天中殺期間は
なんてことない。
だから
人間の心理的に
社会的責任がある人の方が
葛藤や摩擦が起こる
とされる。
↓図解にするとこう
希望を持つだけなら問題ない。
現実未来と精神結果に
こだわらなければ
なんてことない。
「受け身」のワードを
履き違えませんように!
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