水のように生きる


みずがめ座




<不思議 ふしぎ 
 
 ・思議が不可なこと     
 ・思いよらず説明つかないこと



思いもよらない、説明もつかない、
実はそれがすべての真相だったりする。
実はそれがあなたの正体だったりする。







流れる水を
この手ですくっても
つかんで握ろうとしても
形をとどめない。

けれど、水は水。
だから、水は水。





ゆだねていないようで、ゆだねている。
ゆだねているようで、ゆだねてはいない。





丸い器に水を注げば
丸く納まる。

器に溶け込んでいるように見えて
溶け込んではいない。

筒型の器に移し変えれば
今度その水は筒型に納まるから。




どんな環境、どんな相手、
どんな状況に置かれても
柔らかに合わせているのは
弱いからじゃない。

柔らかに弱くできるほどに
強いから、そう応じられる。




誰も気づかないほど静かに
すきまから流れ込んで
どんな環境、どんな相手、
どんな状況にも入れる。


誰も気づかないほど
静かに弱々しく柔らかに。

したたかな、水。









老子第1章
道の道とすべきは常の道に非ず。
名の名とすべきは常の名に非ず。





言葉では表せない。

実するのみで語りきれない。




ただ
探して追ってきた
「タオ」は「わたし自身」
だった。





もしあなたが
「タオ」を探し追えば、
きっと
「あなた自身」の
源泉に還り着くと思います。



みずがめ座




流れる水を
この手ですくっても
つかんで握ろうとしても
形をとどめない。

けれど、水は水。
だから、水は水。



その水は
ときに岩をくだき
ときにルートを作り
ときに大地に濡らし

地上万物の生において
なくてはならないもの。








 
 
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『 水のように生きる 』

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​みそぎ旅の備忘録




老子が理想とする

素朴ナチュラルで

桃源郷のような世界









老子を順にたどり始めたのと同時期に

わたしは

長野県通いの日々が始まりました。




それまで自分とは

縁もゆかりもない地だと思っており


自分でも通う理由が分からず、

人から問われても

「空気が好き、連峰が良い」

としか答えようがないまま。


富士山







長野県と新潟県の境に

秋山郷という地があります。



一昔前ここでの人々の暮らしが

記された書物「秋山記行」

著者の鈴木牧之氏は

この地を「桃源郷」と呼びました。









老子が云う桃源郷そのもののような

人々の暮らしが

かつてここにあったそう。


中国大陸にではなく、日本島国に。






そして、わたし自身は

秋山郷の子孫だった判明し


ご先祖様のルーツという

ひとつ自分の根源を知った、


そんな出来事がありました。


秋山郷にて







長野県めぐりにおいては

様々なヤタガラスなる人々に

導きをご手配いただき

大変お世話になりました。








手配が完璧な信州旅の一連は

けがれを水に流して

もとの自分に還るための

みそぎの様でした。




確信的、核心的、革新的な

タオの効力。



スター






目で「見えない」けど「確かにある」


「確かにある」ものは目で「見えない」



老子道徳経の手始めでは

そんな前置きを学びます。


2024.8








追記



秋山郷では縄文時代の学びもさせて頂けました。







ここまでに至るのも

怒涛の日々だったので、

前置きは終局かと思いきや、


みそぎ旅がひと段落したのち

本格的な人生洗礼に入っていきます。


みそぎ旅の期間は

前置きの前置きでしかなかった。


次の段階もまた

激しくて穏やか、穏やかで激しく、

そしてどこか懐かしく…。



2025.5











Magic of R


R
oad  道

Rain   雨

Ravenclaw 八咫烏











十月十日と天地人三歳


十月十日(とつきとおか) 、
出生前の育み期間と同じく

老子道徳経を知る前の
十月十日はひたすら
生まれ直しの準備みたいな
不思議な日々を体験します。


そして、
訳し始めてからの3年間は
ひたすら
土台作りの成長みたいな
不思議な日々を体験します。





人の脳は、
認知のアップデートを完了するのに
約3年かかるそうです。

世の変動などに対しても
3年ほど経つと、
人々の認知が自然と移ろい
それが常識内に馴染んでいたりする。



「天地人三歳」という
いにしえなる言葉があり、

人間は生まれてから
1年目に天の気・
2年目に地の気・
3年目に人の気が入るため
七五三でまず3歳を祝う…
といった風習が継がれていますし、

脳科学的にいうと
0歳から3歳頃までに
脳神経のシナプス80%程が形成される
といった解明があります。






タオのレッスンにおいても、
3年ほどかけて
自分で生きてる感覚を超えて
なにかに見えない運びに動かされます。

そうこうしているうちに
自分を認識する感覚がヨミ還ります。









たとえばこの章を
現代版パートナーシップ論として
重ねてみるとしたら…



故以智治国  国之賊。

不以智治国  国之福。

知此両者  亦稽式。


故に智を以て国を治めるは、国の賊。
智を以たずに国を治めるは、国の福。
この両者を知れば、また稽式に。






出会って1年目 一


「愛してる」


それだけの素朴な反応に対して、

交際?結婚?関係性は何?など

人間社会の制度で刷り込まれてきた

一般的と呼ばれる概念がまとってきて、

認識の仕方が分からなくなる。


素朴な「愛」そのものに

気づいて、

ゆえにとまどって怖くなったりもする。






2年目 一


「愛してる」


何周まわっても結局それしかなくて

交際やら結婚やら

どの関係枠にも当てはまらない気がして

一旦、刷り込まれてた既存情報を取り払う。

( 取り払うというか、降参させられるというか… )


正解に当てはめようとするのを

辞めるしかなくなる。

「ただのそれ」に

正解も不正解も付けようがないから。






3年目 一


「愛してる」


今日からの交際が自然なら交際するし、

もし明日の結婚が自然なら結婚するし、

来年までの離別が自然なら離別するし、


時に友人で、時に恋人で、

時に家族で、時に先生で…



名称がある関係性であろうが

名前のつかない距離感であろうが


いずれにしても「愛してる」は

「愛してる」の認識に変わりはなく


「愛してる」が自然発生であるのだから
付き合い方も自然なままが最もだと知る。

知るというか、認めて、ゆだねるのみ。







そんな風に3年ほどかけて
「愛する」という反応にともなう概念が
ナチュラルに洗われていきます。

一見、複雑に映る愛の形でも
もとの根源は
シンプルで、素朴で、純粋で、
ただ “気がつけば、そばに居る” だけ。