母が失踪して、数週間経ち、
二学期の始業式が来た。
宿題は終わらずに、済ませただけの宿題を持って家を出た。
父はその朝、兄と私に、
「お母さんがいなくなったことを誰にも言うな!俺の恥になるから。勝手に話したら許さんぞ。」
と言った。
私は、父の話を聞いて、母がいなくなり自宅に帰って来られなかったことは、宿題ができなかった理由になるって思いついたけど、父が怖くてその理由は自分の中で却下となった。
もう一つ、話したいことがある。
小学校時代の先生方の話。
私はとある市立小学校に通っていた。
超有名進学校とかでもなく、いわゆるピンからキリまで能力格差のある学校に通っていた。私はピンでもキリでもなく、それなりのそれなりだった。
学校の先生に熱血指導の先生が2人いた。
私はその先生方と縁が深かった。
担任としてお世話になったN先生と、
部活動でお世話になったS先生。
N先生は卒業するまでの4年間ずっと担任の先生だった。
先生は、宿題を毎日出すが、量が膨大だった。
毎日の日記の提出は当たり前。
算数の小テストも朝必ず毎日で、100点取れないと宿題を出された。時々、大学受験テストを引用し、どうすれば解けるかみんなで考えさせる授業もあった。
体育の鉄棒や縄跳びの課題などで、練習が必要な時は、放課後や休みの日に学校で集まりみんなで練習するのは当たり前だった。
一番大変だったのが、国語の宿題だ。
教科書の文章をノートに全部書き写し、わからない言葉や単語はすぐに調べておく必要があった。もし調べてないと授業中に「調べてないってことはわかってるってことだな。答えを教えてくれ。」と必ず当てられた。ノートは授業が始まる前日までに提出する必要があった。スムーズに朗読できないのも叱られるので、覚えるまで朗読した。こうした予習と復習は必至で、それは卒業までの4年間続いた。
国語辞典は小学生の時に2冊をボロボロにした。今思うと、この後社会人になってから、さまざまな勉強を独学ですることが多かったが、結果が出せたのは、N先生の課題や宿題以上の勉強は、あれ以来なかったからかもしれない。それほど過酷な宿題だった。
今思えば、N先生は努力家だ。
提出したノートにはびっしりとレスポンスが書かれていた。みんなのノートを1冊ずつ丁寧に見てくれていた証拠だ。
今は、あの貴重な時間への感謝しかない。
当時は辛かったけど…(笑)
そんなわけで、私が必死になって、宿題ができていないことへの言い訳を考えてしまう理由が、おわかりいただけただろうか。
母が失踪したことより、宿題の言い訳が上回っていたことが、今は失笑してしまう思い出になっている。