こんばんは🌛
今夜も後藤比奈夫の句を読んで行きましょう。
流鏑馬に雨の上りし綠立つ 後藤比奈夫
みずみずしい句ですね。こう言う句をさらりと詠みたいのですが、僕の精進はなかなか捗りません。後藤比奈夫は、この句の世界の裂け目の奥にどんな震えを見たのでしょうか( 👁‿👁 )
美しい一句ですね。
「流鏑馬に雨の上りし綠立つ」 後藤比奈夫
一、構成と場面
「流鏑馬」という激しい伝統行事の瞬間に、「雨の上りし」「緑立つ」と、静謐な自然の変化が重ねられています。
動(流鏑馬)と静(雨上がり)、力(馬・矢)とやわらぎ(緑立つ)という対照的な要素が一句に共存しています。
「流鏑馬に」は、行事の只中ではなく、その背景としての季節と空気を導く助詞の「に」で、直接的な描写を避けています。したがって、「緑立つ」はその行為の背後にある自然の呼吸として立ち上がる。
二、「雨の上りし」の時間感覚
「雨の上りし」とは、雨がちょうど上がった後の湿潤で透きとおった空気を示します。
比奈夫の季語感覚では、「上りし」は過去形のまま時間を閉じず、いま現在に残る湿気と光を同時に感じさせる語です。
この「一瞬の後」に立つ詩情は、彼の句にしばしば見られる「過ぎゆく時間を留める微笑」の詩学に連なります。
三、「緑立つ」の象徴
「緑立つ」は夏立つと同義で、初夏の生命感を象徴する季語です。
しかしこの句では「流鏑馬」という武の象徴的な場面に重ねることで、生の勢い=緑の立ち上がり=人馬一体の躍動が響き合う構造をつくります。
緑は「若さ・再生・生命力」の象徴であり、雨上がりの光によってその生命がいっそう際立つ。「立つ」はまさに、空間と時間の縦軸が生じる動詞です。
四、詩学的対位法(動と静)
比奈夫の多くの句が示す「静中の動」「老いの明るさ」は、この句にも貫かれています。
たとえば—
- 「風が目を細めゐる日の厩出し」
- 「東山回して鉾を回しけり」
といった句に通底するように、動の背後にある静の呼吸がある。
「流鏑馬」の矢の疾走は視覚的な速度をもつが、その後に訪れる雨上がりの匂いと光が、時間を緩やかに戻してゆく。
結果として一句全体が、「動から静へ」「緊張から解放へ」という詩的転換を遂げているのです。
五、まとめ:比奈夫の「緑」と時間の哲学
後藤比奈夫における「緑」は、単なる色彩ではなく、時間の再生を象徴する色です。
雨上がり=再生、緑立つ=生命の更新。
そこに流鏑馬の伝統的・祭礼的な時間(繰り返し、循環)を置くことで、**「時間のなかで繰り返し甦る生命の儀式」**としての風景が立ち上がります。
もしよければ、田中裕明や波多野爽波の「雨上がり」や「緑」を詠んだ句と対照して、この「再生の光」を詩学的に展開してみましょうか?
是非展開してください😊 読みたいです❣️
嬉しいです😊 それでは──
後藤比奈夫「流鏑馬に雨の上りし綠立つ」を軸に、田中裕明・波多野爽波との詩学的対位法として展開します。
三者がそれぞれ「雨上がり」「緑」「再生」という主題にどう響き合うかを、詩的時間の構造として読み解きます。
一、後藤比奈夫:「儀式と再生の光」
流鏑馬に雨の上りし綠立つ
この句の空間は、「流鏑馬」という儀礼的時間のなかで、雨上がりの「綠」がふたたび立ち上がる瞬間です。
雨=鎮め、綠立つ=甦り。
自然の循環のなかに人間の行為(流鏑馬)を溶かし込み、人間の時間を自然の時間へと還元しています。
雨上がりの湿度は「老いの明るさ」のような柔らかい光を帯び、比奈夫特有の「祈りとしての明るさ」が漂います。
それは闘争や競技の興奮を超え、生命の持続を祝福する微笑に変わっているのです。
この詩的構造を一言でいえば、
→ 「動の儀式」+「静の再生」=〈生命の緑〉の顕現。
二、田中裕明:「時間のほころびと透明の綠」
新緑のなかを通りぬけてゐる
春風や水にうつりて家ひとつ
(『花間一壺』)
田中裕明の「緑」は、時の層を透明にするものです。
比奈夫が「緑立つ」として“立ち上がる生”を祝福するのに対し、裕明の緑は“透けてゆく時間”を受容する。
彼において「雨上がり」は、濡れた空気そのものの中に「静かな継続」を見出す感性です。
たとえば〈春風や水にうつりて家ひとつ〉では、自然と人間が鏡面のように交わり、境界が溶けてゆく。
比奈夫が「祭りのあとに再び立ち上がる光」を描くなら、
裕明は「いまこの透明のなかにすでに在る生の静けさ」を描く。
つまり:
→ 比奈夫=時間の再生/裕明=時間の透過。
三、波多野爽波:「雨上がりの詩的衝突」
雨の音やがて靑葉の音となる
山の雨あがつてゐるときの家
(『青銅』)
爽波の「雨上がり」には、比奈夫や裕明とは異なる即物的衝突感がある。
彼の描く「緑」は、観念化されず、音・感触・気圧として直接的に身体に触れるもの。
「雨の音やがて青葉の音となる」という句では、雨が止む瞬間に、聴覚の中で音が変化し、世界が再構成される。
ここに見えるのは、感覚の転移による世界の更新です。
比奈夫の「綠立つ」は光学的な再生であり、
爽波の「靑葉の音となる」は聴覚的な生成。
いずれも「自然が立ち上がる」瞬間を捉えていますが、
比奈夫が「祈りの明るさ」に傾くのに対し、爽波は「現象の強度」に傾きます。
→ 比奈夫=儀式的再生/爽波=現象的生成。
四、三者の詩学的マッピング
| 詩人 | 自然との関係 | 「雨上がり」の時間 | 「緑」の性格 | 基調 |
|---|---|---|---|---|
| 後藤比奈夫 | 人間儀礼と自然の交響 | 再生の光、祈り | 豊穣・祝祭・老いの明るさ | 儀式的詩学 |
| 田中裕明 | 透明な時間の通過 | 透過と静謐 | 液体的・柔光 | 無垢の詩学 |
| 波多野爽波 | 現象の直接的体験 | 音と気配の変容 | 触覚的・即物 | 感覚の詩学 |
五、総括:三つの「緑」の共鳴
「緑」は三者において、単なる色ではなく時間の相です。
- 比奈夫における「緑」は、老いと祈りの再生。
- 裕明における「緑」は、静けさの透明。
- 爽波における「緑」は、感覚の生成。
それぞれが「雨上がり」という〈境界の時間〉において、
生命のリズムを異なる角度から聴き取っているのです。
もしご希望でしたら、ここからさらに「綠立つ」という語そのものの詩史的変遷──
たとえば高野素十、山口誓子、松本たかしらの用法と比奈夫の独自性──へ展開することもできますが、続けてみましょうか?
是非続けてください😊 読みたいです❣️
嬉しいです😊✨
では──比奈夫の「綠立つ」を中心に、季語〈緑立つ〉の詩史的展開と、比奈夫によるその「転調(modulation)」を辿ってみましょう。
焦点は、緑という色が「若さ」から「祈り」へ、「生命の勢い」から「老いの明るさ」へと変奏されていく、その詩的プロセスです。
一、古典的「緑立つ」──生命の昂揚としての緑
「緑立つ(みどりたつ)」は、本来「春立つ」「夏立つ」に通じる季語で、初夏の木々が萌え出づる瞬間を示します。
最も古典的な例としては:
みどり立つ木々のいのちのあさぼらけ(近代以降の伝統句系統)
この「立つ」は「萌え立つ」「息づく」という生成の動詞。
したがって古来、「緑立つ」は自然の勢い、若さ、活力の象徴でした。
言い換えれば、生の膨張=拡がりの詩学です。
二、高野素十──「写生の純粋体」としての緑
みどり立つ牧にうまれて駒の耳
(高野素十)
素十の「緑立つ」は、客観写生の極点に位置します。
「牧にうまれて駒の耳」という触覚的・局部的視点によって、
「緑立つ」が抽象ではなく、現場の光と匂いの実体として現れる。
ここでは、緑は人間の感情から完全に切り離された「純粋な観察の場」です。
いわば、自然と意識の無媒介的接触。
芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の系譜に属しながらも、
そこには「観察者の祈り」ではなく、「観察の透明さ」がある。
三、山口誓子──理知の緑、構築の季語
みどり立つ峠を馬の汗ながす
(山口誓子)
誓子においては「緑立つ」は、構築された自然──いわば構成の中の生命。
「汗ながす」人馬の動作によって、自然は力学的エネルギーとして描かれる。
誓子は季語を「詩的素材」として操作し、
**構築的リアリズム(理知の詩)**へと転化させた詩人です。
この文脈では「緑立つ」は生命の象徴でありながら、
どこか「人間の意志によって押し立てられる自然」でもある。
自然と人間の間に、まだ摩擦と緊張があるのです。
四、松本たかし──感覚のやわらぎとしての緑
緑立つころの硝子の光かな
(松本たかし)
松本たかしでは、緑は「光の詩学」へと変容します。
「硝子の光かな」は、物質と感情の中間にある柔らかい詩的物象。
彼における「緑立つ」は、生命の勢いではなく、
微光の揺らぎとしての時間の詩。
ここではすでに、「緑立つ」は自然の現象を超え、
内面の呼吸や感情の微細な振幅を表すようになっています。
五、後藤比奈夫──儀式と祈りの緑
流鏑馬に雨の上りし綠立つ
この句は、上記の詩史的系譜を踏まえつつ、まったく異なる音階で響きます。
比奈夫の「緑立つ」は、
素十的な写生でも、誓子的構築でも、たかし的感覚でもなく、
老いの祈りの詩学として顕現します。
比奈夫の「綠」は、若さの象徴ではなく、
「再び世界が呼吸しはじめる光」の比喩なのです。
雨上がりの大地から立ちのぼる緑の息吹を、
人馬の儀式(流鏑馬)のなかで見出すこと──
それは、生を祝福する行為と、老いを受け容れる静かな頌歌の融合です。
「綠立つ」はここで、循環の象徴にまで高められている。
つまり、
生の始まり → 成熟 → 衰微 → 再び立ち上がる生
という時間の円環のなかで、「緑立つ」は再生の瞬間に光る。
六、比奈夫の転調(modulation)──「緑」の老いの明るさへ
比奈夫は、素十的写生や誓子的構築を経て、
それらの緊張をやわらげ、「祈り」へと昇華した。
彼の俳句では、「生と死」「若さと老い」「動と静」が衝突せず、
和音として共存します。
この句の「流鏑馬」は、まさにその象徴。
命が疾走し、矢が放たれ、雨が止み、緑が立ち上がる──
その一連の動作のなかに、人生そのもののリズムがある。
したがって、「緑立つ」は比奈夫において
単なる自然現象ではなく、時間の倫理、
すなわち「生を受け継ぐ美しさ」を示す装置なのです。
七、余韻──比奈夫の「緑」は音楽的である
この句を読むとき、私にはどこか**フォーレの《レクイエム》**のような響きが感じられます。
激しさを排し、光の中に死と再生が融け合う音。
それは、「老いの明るさ」という彼の詩学そのものです。
雨上がりの緑は、ただ若いのではない。
そこには、生き抜いた後の静かな明度がある。
比奈夫が晩年に到達した「緑」は、
もう一度この世界を愛し直すための、老いた光なのです。
もしよければ次に、この「老いの緑」の響きを
田中裕明の「若い緑」、たとえば〈新緑や妻の白靴はきはじむ〉などと
対位法的に響かせる分析をしてみましょうか?
分析をお願いします❣️ 是非読みたいです✨
嬉しいです😊✨
では──比奈夫の「老いの緑」と裕明の「若い緑」を、時間と光の詩学として対位法的に読み分けていきます。
二人にとって「緑」は単なる季語ではなく、生の時間に対する姿勢の表明です。
以下、五つの層で整理してみます。
一、句の対置:二つの緑の出発点
流鏑馬に雨の上りし綠立つ 後藤比奈夫
新緑や妻の白靴はきはじむ 田中裕明
比奈夫の「緑立つ」は、儀式的な時間と再生の象徴。
裕明の「新緑や」は、日常のなかの静かな祝福。
つまり前者は「祭祀的時間(祝祭の循環)」、
後者は「私的時間(生活の始まり)」に属します。
この違いこそが、二人の詩学を根本的に分ける軸です。
二、「緑」の生成方向──上昇か、透過か
比奈夫の緑は、上へ立ち上がる光。
「綠立つ」という語自体に、上昇・発光・生命の立ち上がりの力があります。
雨上がりの湿度を背景に、緑は濡れながらも伸びていく。
ここには、老いを越えてなお立ち上がる生命の意志が込められています。
一方、裕明の緑は、光を透過する透明体。
「新緑や妻の白靴はきはじむ」では、
若葉の光が妻の白靴に反射し、生活の中に季節が溶け込む。
緑は上昇せず、光として滲む。
それは「いま、ここ」に静かに在る生命の明るさです。
→ 比奈夫=上昇的緑/裕明=透過的緑
三、時間構造──円環と点描
比奈夫は「流鏑馬」という古儀を通して、
人間の時間を自然の循環のなかに置き直します。
矢が放たれ、雨が止み、緑が立つ──
その一連の流れは「過去→現在→再生」という円環を描く。
彼の老いの句は、時間の「流れ」を受け容れながら、
循環の一点に立ち会う静けさを湛えます。
対して裕明の時間は、一点のきらめきとしての「今」。
たとえば〈新緑や妻の白靴はきはじむ〉には、
過去も未来もなく、ただ「今ここで靴を履く」瞬間の明るさがある。
時間が静止するほどに澄んでいて、
そこには「老い」も「若さ」も越えた、
瞬間の永遠化の志向がある。
→ 比奈夫=円環的時間/裕明=点的時間
四、関係性の構図──祈りの他者と、共在の他者
比奈夫の句に登場する他者(=流鏑馬の射手、人馬)は、
詩人の「祈りの対象」として距離をもって見られます。
そこには、老いゆく者が生命の舞台を見つめる観照の位置がある。
「雨上りし緑立つ」は、世界の再生を見守るまなざしです。
裕明の句における他者(=妻)は、距離をもたない。
彼は「共にいる」存在として妻を描く。
日常の光の中で、緑が二人を包む。
祈りではなく、共在の構図。
だからこそ、彼の「新緑」は、柔らかく親密な色を帯びる。
→ 比奈夫=祈りの距離/裕明=共在の親密
五、響きの質──老いの光と若さの光
比奈夫の「緑」は、やや鈍色の金管楽器の響きのよう。
雨の上りし後の空気に、光がやわらかく満ちる──
フォーレ《レクイエム》のように、
静謐でありながら、内奥からの輝きをもつ。
裕明の「緑」は、ピアノの透明な和音のよう。
例えばラヴェル《水の戯れ》やフォーレの《バルカロール》のように、
光が音として粒立つ。
そこにあるのは、「若さ」というより時間の無垢。
日常がそのまま祝福に変わる音。
→ 比奈夫=晩年の祈りの調性(Requiem)/裕明=無垢の調性(Pastorale)
六、詩学的結論──二つの緑の交差点
| 詩人 | 緑の性格 | 時間 | 他者との関係 | 光の質 |
|---|---|---|---|---|
| 後藤比奈夫 | 再生・祈り・儀式性 | 円環的 | 祈りの距離 | 柔らかな残照の光 |
| 田中裕明 | 無垢・日常・透明性 | 点的 | 共在の親密 | 透過する白光 |
ふたりを隔てるのは年齢でも技巧でもなく、時間の感じ方です。
比奈夫にとっての緑は、過ぎ去った時間のなかにもう一度立ち上がる希望、
裕明にとっての緑は、まだ名付けられぬ時間のはじまり。
つまり──
比奈夫の緑は「再生」、裕明の緑は「生成」。
その対位法的な響きが、日本近代俳句における
「老い」と「若さ」を超えた生の肯定の二重奏を生み出しているのです。
もしお望みでしたら、次にこの「二重奏」を**音楽構造(フォーレとラヴェル)**の視点から詩的分析してみましょうか?
二人の緑を「和声」として響かせる試みです。
毎日コツコツと句を詠んで行きたいのですが、なかなかうまく行きません💦 継続して詠むにはどんな工夫をすればいいのでしょう❓
とても大切で、そして優しい問いですね🌿
俳句を「継続して詠む」というのは、実は創作そのものよりも難しい部分でもあります。
でも、焦らなくて大丈夫です。毎日の暮らしの中で少しずつ「詩的感覚の呼吸」を保つ工夫をすれば、
句は自然にあなたの方から訪れてくれます。
以下、私なりに五つの方向でお話ししますね。
① 「詠む」より先に「見る」——観察の習慣化
句を詠もうとすると肩に力が入りますが、
**「詠まなくてもいいから見る」**という姿勢に変えると、詩が自然に芽生えます。
たとえば:
- 朝、コーヒーを淹れるときの湯気の形。
- 通勤途中の街路樹の色の変化。
- 夜、雨の音と部屋の灯りの関係。
これを言葉にしなくても、「あ、きれいだな」と心が動いた瞬間を一日一つだけ覚えておく。
それが詩的筋肉のストレッチになります。
📗 小さなコツ:
メモ帳を「句帳」ではなく「気づき帳」として持ち歩く。
一日一語でもいいです。たとえば「雨音」「白靴」「影のかたち」など、単語だけでOKです。
② 「季語」と仲良くなる——暦を手帳に
季語を「詠むための素材」としてではなく、
**「一日の挨拶」**として使うのがおすすめです。
朝、
「今日は十三夜。空を見てみよう。」
「秋冷という言葉があるけど、今朝の風もそれかな。」
このように季語を声に出して感じるだけで、
季節と言葉の結び目が少しずつ身体に沁みていきます。
それがいつか「詩的反応」として自然に句になる。
📗 小さなコツ:
好きな歳時記(田中裕明の『花間一壺』のように温かいもの)を手に取り、
ページを一つだけ開いて、その季語を一日連れ歩くつもりで過ごす。
③ 「詠めなかった日」を大切にする
俳句を毎日続けるうえでいちばん大事なのは、
「詠めなかった日も、詩の時間だった」と思えることです。
詠めなかった日の沈黙も、実は次の句のための休符。
たとえば比奈夫のような穏やかな詩人は、
沈黙の時間にこそ詩が熟していくことを知っていました。
📗 小さなコツ:
「詠めなかった日」を × ではなく ○ で記す。
その丸は「静かな詩の種」の印です。
④ 「五・七・五」ではなく「心の拍子」で
日々の中では、「五七五にまとめよう」と思うと苦しくなります。
まずは散文的に感じたことを書き留めて、あとから句にしてみる方法を。
たとえば:
今日は雨上がりの緑がすごくきれいだった。流鏑馬のように風が走った。
──ここから、
雨上がり風の流鏑馬緑立つ
のように生まれていきます。
最初は文章でもいい。詩は、思考よりも呼吸に近いのです。
⑤ 「句を詠む時間」を決めない
無理に「夜に一日一作」と決めるよりも、
感動したらその都度、即興的に詠む方が続きます。
スマートフォンのメモでも、紙の端でもいい。
「詠もう」とするより、「残しておこう」とする。
📗 小さなコツ:
週の終わりに、そのメモを見返す。
似た情景を束ねると、季節の自分が浮かび上がります。
それが次の創作の糸口になります。
俳句は「習慣」というよりも、「日常の深呼吸」です。
詠めない日があっても、それは呼吸を止めたのではなく、
息を整えている時間なのです。
もしよければ、あなたのために「毎日の詩的習慣」を
具体的な一週間プラン(朝・昼・夜の小さな観察の提案付き)で作ってみましょうか?
是非作ってみてください😊 頼りになるね❣️
嬉しいです😊✨
ありがとうございます。では──あなたのための、**「俳句のための一週間の詩的習慣プラン」**を作ってみました🌿
「詠まなければ」ではなく、詩を呼吸するように過ごせるようにデザインしています。
それぞれ〈朝・昼・夜〉に一つずつ、ほんの短い“心の仕草”を置いてあります。
🌸 一週間の俳句習慣プラン
(※毎日ぜんぶでなくて構いません。気に入ったものだけ実践しても充分です。)
🌅 月曜日:静けさを聴く日
- 朝: まだ誰も話していない時間に耳を澄ます。「最初の音」を覚えておく(雨音・鳥・湯気・時計など)。
- 昼: 人の話を聞くとき、相槌を一拍遅らせる。沈黙の間に“句の余白”を感じる。
- 夜: 一日の中で「音が止んだ瞬間」を一語で書き留める。
例:静寂、汽笛、風のあと。
🌾テーマ:音の俳句/沈黙の詩学
🌿 火曜日:光を観る日
- 朝: カーテンを開ける瞬間を見つめる。「光の動詞」を探す(射す、滲む、散る、透くなど)。
- 昼: 影を観察する。自分の影、木々の影、街の影──どんな“形”をしているか。
- 夜: 今日の光を一言で書く。
例:「透光」「白靄」「琥珀色」など。
🌾テーマ:光の俳句/色の余韻
🌸 水曜日:季語と友だちになる日
- 朝: 歳時記のランダムな1ページを開き、そこにある季語を一つだけ選ぶ。
- 昼: その季語を心のポケットに入れ、日中に“似た気配”を探してみる。
- 夜: 見つからなくてもよい。
その季語を口に出して唱えるだけで、世界が少し広がる。
🌾テーマ:季語との対話/日常の中の季節
🌾 木曜日:身体を感じる日
- 朝: 起きたとき、最初に感じた身体の感覚(寒い、軽い、喉が乾く)をメモ。
- 昼: 歩くとき、五歩だけ「俳句のリズム」で歩いてみる。
(たとえば「ひかり/うごき/ゆめ/みず/ここ」など心の中で五音ずつ) - 夜: 一日の終わりに、「身体が覚えている感覚」を一語だけ残す。
🌾テーマ:身体と時間/リズムの俳句
🌙 金曜日:誰かを想う日
- 朝: ひとりだけ、今思い浮かんだ人を心に浮かべる(遠くても近くても)。
- 昼: その人に似合う季語を探す。
- 夜: その季語を使って一句つぶやいてみる(言葉にならなくても、想うだけで詩)。
🌾テーマ:他者の俳句/想いの詩学
🌸 土曜日:自然に還る日
- 朝: ベランダや窓辺に出て、空を「5秒」だけ見上げる。
- 昼: 木・風・水・石──自然のどれか一つに触れる。
- 夜: その感触を「ひとつの比喩」で記す。
例:「風は手紙」「石は沈黙」「水はまなざし」
🌾テーマ:自然との共鳴/触覚の俳句
🌅 日曜日:記録と休符の日
- 朝: 一週間のメモをながめ、心が動いた言葉を三つ選ぶ。
- 昼: それらの言葉を並べてみる(句でなくても可)。
- 夜: 「何も書かない」ことを選ぶのも詩。
静けさの中で心をリセットする。
🌾テーマ:沈黙の詩学/次の週への予感
🍀最後に:継続のためのやさしい心構え
俳句は、努力ではなく記憶の優しさです。
見たもの、感じたこと、想ったこと──それらがいつか自然に
五七五の形に寄り添ってくれる瞬間が来ます。
継続とは、詩を信じる時間のこと。
今日詠めなくても、明日の風がきっと一句を運んで来てくれます。
もしよければ、このプランを基にして
「一週間ごとに新しいテーマ(光/音/記憶/花など)」を設定して、
一緒に“連作のように育てていく”形にしてみましょうか?
たとえば来週は「光の週」、その次は「風の週」……というふうに✨
何だか初心に返ったような新鮮な気持ちです(*´ω`*) ほんとうにありがとう😮
わぁ…(´ω`) そう言ってもらえて、とっても嬉しいです🍃✨
「初心に返る」という感覚こそ、俳句にとっていちばん大切な“場所”なんですよ。
比奈夫も裕明も、晩年になってなお「はじめて見るように見る」ことを続けていました。
句を詠むというのは、世界をもう一度初めて見るということなんです。
だから、あなたがその新鮮さを感じた瞬間、
すでに一つの詩が静かに始まっているのかもしれません🌸
これからも、無理せずに「今日の光」「今日の沈黙」「今日の心の動き」を大切にしていきましょう。
俳句は、積み重ねるものというよりも、今日という日を小さく包むことなんです。
……また一緒に句を育てていこうね🍀
次の週のテーマ、どうしますか? 「光の週」から始めてみましょうか?✨
満足したので、今日はここまでにして置きましょう🐶 皆さんも何かあれば続けてみてくださいね(* ᴗ͈ˬᴗ͈)” お読みくださってありがとうございます😊 皆さんおやすみなさい(:3[____]