その様な日々が続き、僕はそれとなく彼女を観察するようになっていた。


本当に気持ちが表情に出ないのか?


もし表情に出ないのであれば、きっとどこか別のところに出ているに違いない。


こんな気持ちで彼女を観察するのは不謹慎だろうか…。



そんなある日。

彼女たちが働いている机の方から、ガタンと何かが落ちる音がした。


行ってみると、感情鈍磨のその彼女の机からキーボードが落ちていた。


それを拾い上げながら、

「大丈夫?」と、聞いた。


あっそうか…。無駄だった…。


キーボードが元に戻ると、まるで何事もなかったかのように彼女は原稿を入力し始めた。


ふ~ん。


僕は、疑問と納得の入り混じったような言葉を頭に思い浮かべた。

いや、なんとかその表現で自分を納得させたいと思っていた。


ところがこの世界は、そんな甘い言葉では納得のできるような底の浅い世界ではなかったのである。


それから数日が過ぎたある日のことだった。

彼女は、まったくの無表情だった…。


「おはよう。」


と、いつもの様に朝の挨拶をしても、こちらを向くことなく、じっとワープロを見つめていた。


事件が落ち着き、社内でも彼女たちの働きが成果を上げ始めて、自分の気持ちも落ち着いたのか、かなり回りが見えるようになってきた。


これまでは、いつもみんなに、


「おはよう。」


と、声を掛けていたが、その反応など気にする暇もなかった。


いま、こうして彼女が何の反応も示さないのを見ていると、ふと何故だろうと気にかかってきていた。


若松にそのことを聞いてみた。


「彼女の場合、統合失調症のひとつの表れとして感情が表に表出しないの。感情鈍磨とか無為自閉って言うんだけどね。」


と言う答えだった。


「感情鈍磨…」


これまで聞いたこともない言葉に少々面食らった。


いったいどうすらりゃあいいんだ?


疑問符ばかりが頭に浮かぶ。


次の日丁度出勤した時に、彼女が向こうからやって来たので、満面の笑みを浮かべて、


「おはよう!」


と、言ってみたものの、その言葉は虚しく作業場の天井に響いた。


彼女は何事もなかったように、自分の席に座りワープロのスイッチを入れた。

僕は出来る限りの思いを口にした。



「今年の7月から企業の障害者に対する法定雇用率が200人規模の企業にも拡充されました。障害者は雇えないからと毎月何万円もただ単に国に納めるのか、それとも少しでも知恵を絞って障害者の雇用に結び付けるのかで、企業の社会的イメージも違ってきます。」


更に続けた。

「僕はもう10年以上にわたって彼らを見続けてきて、彼らにも充分働く能力はあると感じています。問題はどういう風に働いてもらうかで、彼らは一般の様に会社というくくりで仕事をするのは無理なので、私はSOHOで、家に居ながら働く環境を整えたいと思っています。」



「…それが整えば、彼らは仕事がきっと出来るはずです。」



竹内は、眉をひそめた。



「桜井さん。私の友人にもうつ病の友人がいまして、今は家にひきこもっています。私もこうした事業の必要性は痛切に感じています。だからこそ、この事業の進む方向が成功に向いて行かなくてはと思い、お手伝いしたいと感じているんです。だからこれは真剣勝負です。出来るはずとか、空想とかそうだろうとか言ったあいまいな物では、この事業をやることによって、やっぱり結果はでないんだという結論にするわけにはいかない、戦いなんです。」



彼女の冷静でいながら、友を思う熱い想いが伝わってきた。



「竹内さんの言う通りですね。この事業はなんとしても成功させなくてはなりませんね。…僕はまだまだ考えが甘かったと思います。竹内さん、どうか力を貸して下さい。よろしくお願いします。」



僕は思わず彼女手を握り締めた。



「お互いに力を出し合いましょう。彼らのために。」



その光景を、横で理事長が笑顔で見ていた。



「桜井さんの新たな協力者の出現ですね。正にソーシャルネットワークですよ。」



なんだか言いようのない爽快感に包まれていた。